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BC級戦犯が座したサイゴンの刑務所

収監された刑務所は二か所

チーホア刑務所(Khám Chí Hoà)

 戦後,フランスが日本人BC級戦犯を裁くためにサイゴンに設けたのが西貢(サイゴン)常設軍事裁判所。
 そこで「サイゴン裁判」が開廷されていた間,日本人が収監されていた監獄(便宜上「刑務所」とする。)は二か所。一つは,今もホーチミン市10区で現役の「チーホア刑務所(Khám Chí Hoà)」。

サイゴン中央刑務所(仏名Maison Centrale de Saigon,越名Khám Lớn Sài Gòn)

 もう一つは,今は存在しない「サイゴン中央刑務所(仏名Maison Centrale de Saigon,越名Khám Lớn Sài Gòn)」。

サイゴン中央刑務所があった場所

 サイゴン中央刑務所は,1886年から4年をかけてフランスが建設したもの。南ベトナム時代の1968年に,現在のホーチミン市総合科学図書館(Thư viện Khoa học Tổng hợp TPHCM)に建替えるべく,取壊されている。現在の通り名で,リ・トゥ・チョン通り(đường Lý Tự Trọng)と,ナム・キー・コイ・ギア通り(đường Nam Kỳ Khởi Nghĩa) に挟まれた角にあり,西貢常設軍事裁判所とはリ・トゥ・チョン通りを挟んで向かい合っていた。

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サイゴン中央刑務所を囲む2本の通り

現在のトゥ・チョン通り(đường Lý Tự Trọng)とナム・キー・コイ・ギア通り(đường Nam Kỳ Khởi Nghĩa)

 フランス統治時代,これらサイゴン中央刑務所を囲む上記二本の通りには,現在と違うフランスに由来する名称が付けられていた。
 現在のリ・トゥ・チョン通り(đường Lý Tự Trọng)には,「Rue de La Grandìere」と,フランス語で「(インドシナ)総督」を意味する名称がつけられていた。ナム・キー・コイ・ギア通り(đường Nam Kỳ Khởi Nghĩa)には,「Rue Mac-Mahon」と,当時のフランス大統領の名前がそれぞれ付けられていた。
 これらの通りは,ベトナムに対するフランスの影響力の低下に伴ってベトナムに由来する名称に変更され,さらに1975年のベトナム南北統一後は勝者の“主義”に合致する名称に変更されていく。

「Rue de La Grandìere」から「リ・トゥ・チョン通り(đường Lý Tự Trọng」)へ 

 まず「Rue de La Grandìere」については,1950年4月30日,前年6月14日にフランスの承認を得て成立し,阮朝最後の皇帝「Bảo Đại(バオダイ,保大帝)」を元首としていたベトナム国(Quốc gia Việt Nam)によって,阮朝最初の皇帝の名「Gia Long(ザーロン,嘉隆帝)」に変更された。
 しかし,Gia Long(嘉隆帝)については,ベトナム統一,そして阮朝成立の過程でフランス人宣教師の協力を得ており,これが後の植民地化に繋がったとの負の評価があった。
 そのため,ベトナム戦争を経て共産主義国として統一されたベトナム社会主義共和国は,1975年4月30日以降,この通りの名称を,1931年に若干17歳でフランス官憲により政治犯として「サイゴン中央刑務所」に収監され,刑務所内のギロチンで処刑された「リ・トゥ・チョン(Lý Tự Trọng)」の名に変更し,現在に至っている。

「Rue Mac-Mahon」から「Général De Gaulle」・「Maréchal De lattre de Tassigny」を経て「ナム・キー・コイ・ギア通り(đường Nam Kỳ Khởi Nghĩa)」へ

 次に「Rue Mac-Mahon」については,サイゴン中央刑務所だけでなく,サイゴン裁判所(西貢常設軍事裁判所),ノロドム宮殿(現在の統一会堂),さらにはタンソンニャット空港など重要施設を貫く通りであるため,フランスも,後のベトナムも,その権威を示す名を冠すべく,政権の変更などに応じて,頻繁に名称が変更されている。
 1945年12月28日,その年の3月9日に実行された明号作戦により日本軍に屈服するも,再植民地化のためにベトナムに戻ってきたフランスは,第二次世界大戦で勝利をアピールするかのように,あの「Général De Gaulle(ド・ゴール将軍)」の名をこの通りに冠した。

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 さらに,1952年1月15日には,この「Général De Gaulle」通りのうち,ノロドム宮殿(現在の統一会堂)から,サイゴン裁判所(西貢常設軍事裁判所)及びサイゴン中央刑務所を経て,現在のベンゲー運河(Rạch Bến Nghé)までの区間を,その4日前に亡くなった「Maréchal De lattre de Tassigny(ド・ラトル・ド・タシニー元帥)」の名に変更した。ド・ラトル元帥は,第二次世界大戦の英雄で,ベトナム北部で既に激しさを増していたベトミンによる“抗仏戦争”に対抗するため,前年1951年にインドシナ駐留軍司令官(死後に「元帥」に昇進)に就任していたが,翌1952年1月11日にベトナム北部の戦場で病死していた。
 1955年3月22日,前年のディエン・ビエン・フーでのフランスの敗戦とそれに続くジュネーブ協定によりフランスがベトナムから完全に撤退したことを受け,前述のバオダイを元首とするベトナム国は,この通りの名称を,「裁判所の前を通るから」という単純な理由で,政治色のない「đường Công lý(真理や正義の意味)」に変更した。
 ほどなくして,ベトナム国の首相だったゴ・ディン・ジエム (Ngô Ðình Diệm)は,アメリカの後ろ盾を得,1955年10月26日,バオダイを退任追い込み,自らを大統領として,新たにベトナム共和国(いわゆる南ベトナム,Việt Nam Cộng Hoà)を樹立する。しかし,1963年11月1日,そのゴ・ディン・ジエム大統領が軍のクーデターにより殺害され,新政権はその「革命」を記念して,この通りの名を「đường Cách Mạng 1-11(11月1日革命)」に変更した。
 1975年4月30日に南ベトナム政府から「革命」により人民を解放したベトナム社会主義共和国が敵であった南ベトナムの「革命」を認めることはできない。そのため,かつてこの通りに面していたサイゴン中央刑務所に革命家の多くが収監されるきっかけとなった蜂起で,しかも,革命女史グェン・ティ・ミン・カイ(Nguyễn Thị Minh Khai)がサイゴン中央刑務所の獄中からその指揮をしたとされる,「南部蜂起(ナム・キー・コイ・ギア/Nam Kỳ Khởi Nghĩa)」に通り名を変更し,現在に至っている。

「Rue Général De Gaulle」と「Rue de La Grandìere」に誇示されたフランスの権威

 サイゴン裁判が開廷していた1946年10月から1950年3月までの間,北部では1945年9月2日に独立を宣言したホーチミン首席率いるベトナム独立同盟会/ベトミン(Việt Nam Độc Lập Đồng Minh Hội)との第一次インドシナ戦争(抗仏戦争)が既に激化していたが,フランスも,未だ南部サイゴンでは,権力の象徴である西貢常設軍事裁判所とサイゴン中央刑務所を囲む通りに「Rue Général De Gaulle」と「Rue de La Grandìere」という権威を示す名を冠し,その威信を保っていた。 

ナム・キー・コイ・ギア(南部蜂起/Nam Kỳ Khởi Nghĩa)と二つの刑務所

1941年12月「チーホア刑務所」建設

 ところで,「ナム・キー・コイ・ギア(南部蜂起/Nam Kỳ Khởi Nghĩa)」は,1940年9月の日本軍の北部仏印進駐,タイ軍によるカンボジア・ラオス国境への侵攻などで,フランスの弱体をみたインドシナ共産党の主導によって1940年9月以降ベトナム各地で革命家による蜂起が多発したが,そのうちの一つとしてサイゴンを中心としたベトナム南部で1940年11月23日に発生したもの。
 南部蜂起はフランス官憲により制圧されたものの,多数の収監者を抱えるに至ったフランスは,手狭になったサイゴン中央刑務所の代わりとして,1941年12月に新たな「チーホア刑務所」建設を決定する。

チーホア刑務所の設計者は日本人

 同じ年の1941年7月には日本軍がサイゴン(南部仏印)にまで進駐していたこともあり,「チーホア刑務所」の設計は日本の設計士が行った。1943年から建設工事が開始されたが,1945年3月9日以降,明号作戦によりフランス軍を制圧した日本軍は,ベトナム人ではなく,フランス軍人捕虜を収容するため,この建設工事を継続し,フランス軍人捕虜収容所として使用していた。

 しかし,それから半年も経たない昭和20年(1945)8月15日を境に,主客が転倒する。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。