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第二師団が最後を迎えたサイゴン

 上の写真は,仙台市の榴岡公園内に「仙台市歴史民俗資料館」として保存されている,旧陸軍第二師団の隷下,歩兵第四連隊の旧兵舎。

 仙台に司令部を置き宮城,福島及び新潟三県の出身者で構成され,「勇」とも呼ばれる旧陸軍第二師団の戦歴は,台湾で始まりベトナムで終わると言っていい。


 明治28年(1895)4月5日に新たに乃木希典中将が司令官に就任した第二師団は,同年9月12日,台湾に上陸した。
 これは,日清戦争の勝利により清国から割譲を受けた台湾において,反乱を起こしていた清国軍残党を討伐するためであった。
 この「台湾征討軍」そのものの司令官は,かつての奥羽越列藩同盟の盟主にして,その頃は近衛師団長に就いていた北白川能久親王(輪王寺宮)。これに陸軍参謀としてこれに加わったのが,会津藩出身で,陸軍一の清国通にして後の陸軍大将の柴五郎。第二師団はその援護という形だった。
 明治政府の狙いだったのか,日清戦争後の「難地」たる台湾の平定にあたったのは,(第二師団の司令官を除いて)まだその頃も人の意識として残っていた「賊軍」の人たちだった。


 その後,明治37年(1904)2月に始まった日露戦争では,第二師団は,幸か不幸か,乃木希典大将が指揮し旅順要塞の攻略にあたった第三軍ではなく,黒木為楨大将の第一軍隷下として,開戦当初から主力として満洲の平原で戦った。

 第二次世界大戦では,ガダルカナル島やビルマ(インパール)など,激戦地にして全滅を強いられ戦地を転戦,太平洋から東アジアまで,まさに"大東亜戦争"を体現していた。
 その第二師団の最後の作戦参加となったのが,ベトナム(インドシナ)からフランスを追放する「明号作戦」で,これは東京がナパーム弾に焼かれていた時と同じ,昭和20年(1945)3月9日(現地)深夜から実行され,ほぼ1日で征圧し,結果的に日本軍の最後の勝利となった。

 第二師団は,ベトナムのサイゴンに司令部を置き,明号作戦後の処理を行っているさなかに,昭和20年(1945)8月15日を迎えることになった。
 この間,それまで凄惨な戦場を渡り歩いてきた第二師団の兵員にとって,戦火がなく民情も穏やかなベトナムは楽園に感じられたようで,その感情が戦後,彼ら自身の身の振り方を左右することになった。

 第二師団隷下の各連隊の兵員の多くは,昭和21年(1946)4月以降,現在のベトナムのブンタウ(Vũng Tàu),当時のCap Saint -Jacques(サンジャック岬/聖雀岬)から,順次,復員船に乗って帰国した。
 例えば,第二師団隷下の連隊のうち会津で組織され通称「若松連隊」と呼ばれた歩兵第29連隊は,1946年4月29日に米国籍船リバティ号でサンジャック/ブンタウを出港している。

 ところが,第二師団隷下の兵員のなかには,心ならずも,あるいは自らの意思で日本へ帰国しない者もいた。
 ある者は,BC級戦犯の容疑者としてフランスにより拘束され,いわゆるサイゴン裁判に服した。この中には死刑となった者もいた。
 またある者は,戦後もベトナムに残り,ホーチミン氏が率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に加わり,ともにフランスからの独立戦争を戦った。特に「若松連隊」の小隊長クラス(大尉くらい)には,ベトナムに初めて創設された士官学校の教官や副教官に就き,その後,フランスやアメリカとの戦争を指揮したベトナム人士官の育成に努めた者が多く出た。
 またまたある者は,ベトナム女性と結婚して家族をもち,そのまま新ベトナム人(Người Việt Nam mới)としてベトナムに残った。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。