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渋沢栄一と日越の交錯

 渋沢栄一が生まれた1840年(天保11)は,イギリスが清国にアヘン戦争を仕掛るなど,西欧列強による東亜への侵略に遠慮がなくなった時代。
 この時を境に悲劇の歴史を刻むことになるベトナム。
 他方,我が幕末日本の為政者は,存外,かかる海外情勢を把握し,むしろ現実的な対応をとって,最終的には自ら幕府を閉じることで日本を守った(と評価できる。)。
 その幕府の命で,植民地サイゴン,宗主国フランスを見聞することになった青年渋沢栄一が,後に明治日本の資本主義を興すことになるのは,おそらく偶然ではない。

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アヘン戦争の戦利品として香港島を得たイギリスに遅れをとるまいとするフランスが奸心を示したのは,琉球,日本及び朝鮮だった。

 フランス東洋艦隊総司令官セシール提督(Jean-Baptiste Cécille)は,まず1846年6月6日(弘化3年5月13日),サビーヌ号(La Sabine),ヴィクトリューズ号(La Victorieuse)及び旗艦クレオパトル号(La Cléopâtre)の三隻の軍艦を,琉球王国・今帰仁の運天港に揃えた。
 セシール提督自身が琉球王国に対し武力による威嚇の上,「和親,通商及び布教」を迫った。実に”黒船来航”の7年前である。
 1846年7月17日(弘化3年閏5月24日),琉球側の約6週間の引き延ばし交渉の末,セシール提督とその艦隊は琉球を後にした。

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 運天を出港したセシール提督率いるフランス東洋艦隊は,1846年7月29日(弘化3年6月6日),幕府天領の長崎にその姿を表した。
 これに対応したのは,長崎奉行の井戸覚弘。1639年(寛永16)以降,約200年「鎖国」にあった日本はフランス人の上陸すら拒否し,セシール提督らも長崎・日本を後にした。
 なお,当時の「長崎警備を担当していた佐賀藩が,弘化3年(1846)長崎にフランス船が来港した際の警備の様子を長崎奉行所に提出した絵図の写し」を下記HPで見ることができる。

 日本を離れたセシール提督と三隻の軍艦は,1846年9月,朝鮮の忠清道・外煙島に着いた。1839年に同国で発生したフランス人宣教師殺害事件「己亥迫害」を口実に,当時の朝鮮王・憲宗宛に「国書」を渡そうとしたが,朝鮮側はどうにかこれを拒絶した。

 琉球,長崎及び朝鮮を偵察して回ったセシール提督(下記写真の人物)は,結局,18世紀からフランス人宣教師などによる侵食が進んでいた「ベトナム」に狙いを定めた。

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 フランスがベトナムに唾をつけたのは,ブルボン王朝の時代である。
 ベトナム阮王朝の開祖,阮福暎(Nguyễn Phúc Ánh,嘉隆帝/Gia Long )は,1787年11月21日,フランスのルイ16世との間でヴェルサイユ条約を締結している。これは,他の国内勢力を打倒し,ベトナム統一を実現するためにフランスに武力の援助を求めたもので,見返りにカトリック布教の自由,ダナンへのフランス人の居留などを認めた。
 内なる敵に勝つために外なる輩に力を借りたことは,ベトナムの統一(版図拡大)及び阮王朝成立には貢献したが,宣教師が先導する形でのフランスによる侵食の端緒となり,フランスによる植民地の近因となった。
 
 それを察したのか,儒教すなわち「攘夷」の徒であった第二代・明命帝(Minh Mạng)は,直ちにカトリックを弾圧を開始,1831年1月8日にはカトリックの全面的に禁止し,1836年に宣教師を処刑するなど,その排斥に着手した。ただ,既にカトリック信徒が30万人もいるなど,国内で浸透が進んでおり,むしろ外国人宣教師を含めたその排斥行為自体が,後にフランス侵略の口実とされた。
 明命帝治世のベトナムは,中央集権化を進め最大版図を築くなど,史上,最も隆盛を誇った時代と言われている。結果から見ればそれがベトナム最後の栄華となるが,当の明命帝はその翳りを見ることなく,1841年1月20日に亡くなった。
 ベトナムのその後の悲劇は,彼の「攘夷」思想とともに,第三代・紹治帝(Thiệu Trị)が引き継いだ(下記写真の人物)。

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 1846年6月から同年9月にかけて琉球,長崎及び朝鮮を周り,ベトナムに狙いを定めたセシール提督とフランスにとっての好都合は,紹治帝が,1846年6月6日,フランス人のドミニク・ルフェーブル司教らを捉え,死刑を宣告していたことだった。奇しくもその日は,セシール提督ら琉球の運天港に軍艦3隻を並べた日である。

 1847年3月23日,セシール提督は,砲24門のヴィクトリューズ号(La Victorieuse,艦長はcapitaine de frégate Charles Rigault de Genouilly/ジェヌイ中佐)と,砲54門を備えたグロリエ号(La Gloire,艦長はcapitaine de vaisseau Augustin de Lapierre/ラピエール大佐)を(現在の)ダナン港に送り,フエ王宮の紹治帝に対し,司教ら釈放とカトリック布教の自由などを要求した。
 紹治帝はこの威嚇に屈し,司教らを釈放したが,フランスはこれを無視,1847年4月15日,ベトナム軍艦5隻に対し砲撃を加えこれを撃沈してしまった。
 これに憤激した紹治帝は,その憤激のあまり同年11月3日に亡くなった。「全ての外国人を処刑せよ」と遺言したらしい。

 第四代・嗣徳帝(Tự Ðức)は,”臥薪嘗胆”どころか,この現状下で「攘夷」を断行する。1851年から翌52年にかけてフランス人宣教師2人を斬首,1857年には,さらにスペイン人宣教師2人を斬首するという排外強行措置に出た。
 ナポレオン3世はこれを奇貨として,殺害された宣教師に対する損害賠償などを要求するため,スペインを誘って12隻からなる大艦隊をベトナムに派遣する。その総司令官には,1847年4月15日のダナン砲撃にも加わったジェヌイ少将(Contre-amiral Charles Rigault de Genouilly)が就いた。
 1858年9月1日,フランス艦隊はダナンに砲撃を開始し,海兵隊が上陸し,これを占領した。フランスは,植民地支配の意図を隠すことすらせず,フエの王宮に対し「領土の割譲」を要求したが,嗣徳帝(下記写真の人物)はこれを拒絶した。
 王都フエ周辺でのベトナム軍の抵抗にあったフランス軍は,矛先をベトナム南部(コーチシナ)に転じ,1859年2月19日のサイゴン占領に続き,武力による侵攻を続け,ミト,ビエンホオやバリアなどを次々に占領した。フエ王宮はこれに屈し,1862年6月5日にサイゴン条約の締結を強いられ,ベトナム南部(コーチシナ)東部三省をフランスに割譲し,フランスの直轄領とすることを認めさせられた。
 これが1884年6月6日第二次フエ条約をもって完成する,フランスによるベトナム全土の植民地化の始まりであった。

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 他方,日本でも,西暦1500年代の戦国時代,織田信長が”天下布武”のためにスペインやポルトガルから武器などの提供を受けていた。しかし,豊臣秀吉はカトリックへの弾圧を始め,その後の徳川幕府は,1639年(寛永16)以降,「鎖国」した。侵略国スペイン・ポルトガルも,当時の日本には武力で敵わず,カトリック排斥を理由に武力侵攻することはできず,日本は,以後,200年"鎖国"による平和な歴史を歩むことができた。
 しかし,産業革命を経た200年後では,武力は東西で逆転していた。
 フランス軍と戦っていた1858年頃のベトナム軍の武器が,現在のホーチミン市の動植物園に隣接する「ベトナム歴史博物館」に展示されているが,残念ながら火縄銃,青銅砲あるいは投石器レベルであった。

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 フランスがベトナム侵攻の機会を伺っていた頃,日本は,1854年3月31日(嘉永7年3月3日),ペリー提督率いるアメリカとの間で日米和親条約を締結している。
 ペリーとの交渉にあたったのは,前述の井戸覚弘ら。1846年7月29日(弘化3年6月6日)に長崎に現れたセシール提督率いるフランス艦隊に対する手腕が評価され,長崎奉行から江戸北町奉行に抜擢されていた。
 そもそも幕府には「攘夷」の選択はなかった。
 むしろ,その後の1858年7月29日(安政5年6月19日)に締結した日米修好通商条約でも,沿岸防衛と異なり開港地を他藩に押し付けず,函館,新潟,神奈川(横浜),兵庫(神戸)及び長崎と”天領”のみを開港したことを考えれば,アメリカの威嚇に「屈した」というより,積極的に貿易による利益の獲得,しかも幕府による独占を狙ったのかもしれない。実際,新たに貿易で得た利益で,軍隊を西欧近代化,軍艦の購入などに充てている。
 他方,その第4条に「阿片の輸入嚴禁たり若し亞米利加商船三斤以上を持渡らは其過量の品は日本役人之を取上へし」との規定があるように,欧米によるアジア侵略の誘引となる阿片(アヘン)の貿易を厳禁としている。アメリカが求めた規定とは思えない。日本は,アメリカだけでなく,ほぼ同内容の修好通商条約をイギリス,フランス,ロシア及びオランダと締結しており(合わせて「安政の五カ国条約」),実際,清国やベトナムと違って,欧米諸国から日本にアヘンが持ち込まれることはなかった。

 ところで,これら五か国との条約書の原本は,1923年(大正12年)の関東大震災で被災している。オランダとロシアとの間の条約書は焼失してしまった。残り三カ国との条約書は焼け残ったものの蒸し焼き状態となった。補修はしているが,一般公開は困難な状況だそうだ。比較的損傷が軽微だったアメリカとの「日米修好通商条約」は精密に再現され,そのレプリカが外交資料館に常設展示されている。

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 フランスは,1862年6月5日のベトナムとのサイゴン条約に続き,1863年8月11日には,カンボジアのノロドム国王との間で「修好,通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結し,カンボジアを保護国としている。
 さらにフランスは,1867年6月19日から同月24日にかけて,サイゴン条約で割譲されたベトナム南部(コーチシナ)の東部三省とカンボジアの間に位置する「コーチシナ西部三省」を単純に武力で占領,同月25日,一方的に植民地である旨を宣言した。以後,カンボジアを含めたベトナム南部(コーチシナ)は,租借や保護などではなく,フランスの直轄領となった。

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 フランスなどに国を開いた幕末の日本人が,フランス領となったベトナム(コーチシナ)にやってくるようになるのも,必然だった。
 例えば,当時21歳の新島襄は,1864年7月17日(元治元年6月14日),箱館港から米船ベルリン号で国禁を犯して脱国,翌年7月20日(慶應元年閏5月28日)にアメリカのボストンに着いているが,途中,上海,香港を経てサイゴンに上陸し,約2ヶ月間滞在,その「航海日誌」に当時のサイゴンの様子などを記録している。

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 そして,渋沢栄一も当時のサイゴンに降り立った一人である。
 渋沢栄一は,徳川昭武を将軍徳川慶喜の名代とする「パリ万博使節団」の一員に選ばれ,1867年2月15日(慶應3年1月11日),フランスの郵便船アルヘー号に乗船し,横浜を出港している。
 1867年3月1日(慶應3年1月25日)にはサイゴンに寄港している。幕府がフランスと友好関係にあったため,礼砲で迎えられたらしい。彼は,下記の「渋沢栄一における欧州滞在の影響」によると,フランスによる”新”植民地サイゴンのインフラ整備が気になったようだ。
 渋沢栄一らは,1867年4月3日にフランスのマルセイユ港に到着,ナポレオン3世に謁見,パリ万博を訪問し,1868年12月16日に帰国している。帰国した時には,年号がその年の10月23日(慶應4年/明治元年9月8日)に”明治”に変わっており,雇い主の幕府は既に消滅していた。

 幕府は,その陸軍の近代化をフランスに依存していた。武器の供与や軍事顧問団の派遣をフランスから受けるどしており,フランスの意図どおりその影響力は事あるごとに大きくなっていった。
 渋沢栄一らが渡仏中の1867年11月9日(慶應3年10月14日)に大政奉還を行った将軍徳川慶喜の耳に,植民地になったばかりのサイゴンの状況はどのように伝わったのだろうか。
 自ら幕府を終わらせることにはなったが,1868年1月27日(慶應4年1月3日)に始まった「鳥羽伏見の戦い」の緒戦での敗北後,反攻を主張する会津藩などを置き去りにして,将軍徳川慶喜自身が独断で大阪城から遁走,以後,徹底的に恭順の姿勢をとったことは,フランスなど外国勢力が介入する内戦が避けられた結果となり,この点をベトナムと比較すると,日本にとっては英断だった言えるのかもしれない。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。