あきらめろ
まがりなりにも10年間社会人をやってきて、すでに肩で息をしている感はあるものの、自分なりに少しは成長できたかな、と思う節もある。
胸を張って自慢できるほどの達成はないけど、小さな前進はあったはずだ。
それは、ひとことで言えば、「あきらめる」ことができるようになった、ということだろう。
社会人になったばかりの私は、とってもあきらめの悪い男だった。
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「いつか、自分は夢を叶え、特別な人間になる。そして、人々から羨望のまなざしを受け、年収5,000万円くらいの金持ちになって、ナイスバディの美女達からモテまくる」
学生の頃の私は、そんな途方もない夢物語を妄想しては、毎日ワクワクして過ごしていた。
その叶えるべき夢が何なのかさえ、まったくわかっていなかったのに。
正直、頭が悪かった。
当然叶えるべき夢が何なのかわかっていないのだから、そこへ向かう地道な努力などまったく積んでいない。
安い自己啓発本にすぐ影響されては、夢っぽいものを追いかけるポーズだけしていた。
起業家のセミナーに出席してみたり、公認会計士の専門学校に通ってみたり、株式投資をしてみたり、速読の訓練をしてみたり、いろんなことにむやみやたらと手を出して、そのくせすぐに投げ出していた。
でも、そうやって夢を追いかけているフリをしている自分が、とっても好きだったのだ。
目の前の何者でもない自分に向き合わず、気持ち良いままでいられるから。
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就職して社会に出ることが決まったあとも、学生時代に頭の中だけで育み続けた夢をあきらめきれず、未練たらたらだった。
この「あきらめない」といのは、美徳とされることもしばしばあるが、場合によっては結構タチが悪い。
あきらめないから、次に進まない。進めない。
あきらめの悪い私は、社会人1年目からの数年を随分と“こじらせて”過ごした。
浮足立って、地道な努力から目を背けて、言い訳ばかりして。
小さな自分を取り繕うことだけに必死だった。
ものすごくダサかった。
でも、そうやってブサイクな日々を生きていく中で、バカな私もさすがに妄想にしがみついていることの愚かさ加減に気づいてくる。
現実的な努力をしなければと思う一方で、それでもなお、夢をあきらめる敗北感を恐れて一歩を踏み出せないでいた。
そこから抜け出すために、何をして良いかわからずに悩みまくっていた頃に、こんな言葉に出会った。
「あきらめ」という言葉に「 断念する、放棄する」といった意味がついたのは、歴史的にはごくごく最近の、明治期以降のこと。本来の意味はどうだったかというと、「あきらめ」は「諦め」ではなく「明らめ」、すなわち「ものごとを明らかにする」という意味で使われていた。
それまでの私は、「あきらめる」ということは「ギブアップ」と同じだと思っていた。
自分の人生をギブアップすることはできない。だからあきらめられない。
でも、今なら違うとわかる。
自分のように、特別な才能に恵まれているわけではなく、必死の努力を積み重ねてきたわけでもない人間にとって、「あきらめる」ということは「明らめる」ということだ。
今の自分には到底できないことを明らかにして、それを潔く手放す。
その一方で、なんとかできそうなことも明らかにする。そして、そのできそうなことに向かって一歩一歩進んでいく。
それが、あきらめるということだ。
そう思えるようになってきてからは、だんだんとしょうもない妄想から抜け出し、自分なりに少しは成長してこれた気がする。
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社会人を10年もやってきたのに、今の私には、人々からの称賛も、5,000万円の年収も、美女たちからの熱烈なラブコールもない。
学生の時に思い描いていた輝く人生とは全然違う。
でも、全然違ったけど、意外と悪くもなかったな、と思う。
夢は叶わなかったけど、嬉しくてじっとしてらいられず、夜中に自転車で走り回ってしまうような素敵な1日もあった。
だから、あの頃のあきらめられないバカな自分に言ってやりたい。
あきらめて、でも、あきらめないで、がんばれ。
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