僕の裏詠みonリリック        日本国憲法とブルーハーツ

さて、今週のリリックは・・・・ちょっと色々と。
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『世界の真ん中(1987)/ ザ ブル-ハーツ』
『首吊り台から(1991)/ザ ブルーハーツ』 
『チェインギャング(1987)』/ザ ブルーハーツ』
『ブルーハーツより愛をこめて(1985)/ザ ブルーハーツ』  
『裸の王様(1987)/ザ ブルーハーツ』 

     
蟲毒と孤独
 古代中国の呪術の一つで『蠱毒(こどく)』というものがあったらしい。
百足や蛇や様々な毒を持つ生き物や虫達を同じ穴蔵で戦わせ、最後に生き残ったものを祀り、その毒を使い暗殺等に用いるとか。
 1990年頃、その『蟲毒』は少なくとも、中国(地方)の片田舎の’広いだけ’が確保された一軒家の2Fにある和室の「ただ置かれ」たスチール棚の奥に存在した。
なんてね、嘘である。
 ただ、その部屋には無駄に白い瓶があった。
その瓶の中には、墨汁や洗剤や様々なものを混ぜた、妖気漂う液体が入っていた。
その部屋の主は脳漿をぶちまけた様な表情の少年で腐りゆく感情がたまると、
その自作の「毒薬」を出してはみつめては、
世に対する負の念を放って。「あいつら、いつか覚えとけよ」と、
かき混ぜる、かき混ぜる、かき混ぜる。

 そして、その少年は、今こうして、どうにか生きながらえて、
「日本のおっさん」としてこの文を書いている。

 30年近く経った自分のことだからって、その負の念を思春期特有の苛立ちと一言でいうのは酷だよーと思う。
そこにあるのは、自分という形のないものへの劣等感、
相手という形のないものへの憧れと嫉妬、有象無象の情と見栄と世間体と
憎しみで。
負の念は、「毒」に還元され、
毒が強まる程、妖気は一層濃くなり、僕を酔わせた。
酔うほどに、「あいつら、いつか殺してやる。」そういう能動的な感情が渦巻くこともあった。でも、ほとんどは「もし、この毒で俺が死んだら、あいつらはどう思うかな。みんな、どう考えるかな」という消極的な妄想で。
そういう時は一層、黒の上に浮かぶ、青や緑といったネガティブなオーロラが良く動いてみえる気がした。

そう。
『蟲毒』ならぬ「孤独」を煮詰めた魔性の瓶が、
僕の「世界の中心」にはあった。それは理想とする世界の「端っこ」でもあった。
様々なものに僕は追いやられていた。
その瓶が世界の端っこから、落ちてしまいそうな僕を踏みとどまらせていた。

そうしたネガティブな夜もまた新しい朝を連れてくる。
新しい朝の入口からは「義務的な日常生活」がなだれ込んでくる。
世界は中心も、端っこもないくらい明るくなってしまって、
僕は明るさの中で自分を恥じる。恥じる。恥じる。
そして、隠す、隠す、隠す。
日常をやり過ごす。
これといった苦労なんてしていないくせにということ
 社会のサンプリングを自分を中心にしてやるわけにはいかないが、
こうした腐りかけた感情や歪みに歪んだ本能をもつ「1人」が、
たくさん集まったのが人の集まる社会です。
その他、例えば。
何を成したわけではないのに理屈だらけの学生や、
取るに足りないことをいう「与えとけばいい」他愛無い子ども、
役にたたない高齢者、働くことができない人達、身の回りのことができない人達。
どういう言われ方をしようと、扱われ方をしようと、
それぞれの人達は、それぞれ承認を必要としているし、
そして、承認をされないことで不満を抱える。
結果、不満が、承認を遠ざけることに繋がりもする。
(もちろん不満を努力に転化する人もちゃんといる。)

あのね、人はね、苦労してようとしてまいとね。
いやむしろ、苦労してないなら、猶更ね、
自分が1人であるってことすら受け止められないんだな。
自分が1人であるってことすら受けとめられないと、相手のことを1人であるってことがわからないんだな。それは苦しいことなんだよ。
自分では、自分の輪郭はつかめない。
自分の中心軸がわからない。
人の流れに押され、人の言葉や魔性の瓶に酔わされ、
人の愛に押しつぶされ、人と人と人に酔う。
人は、わがままなものです。でも、わがままになれるのは、素晴らしい事です。
そして、ヒトの時代は、
ちゃんとした意味で「わがまま」になることすらできなかった歴史の連なりです。
倫理と法と戦争と権力と立場と国家と小心者な僕
 そんな本来はわがままな1人ずつをうまいことまとめあげて、
生産性をあげる為にうまれた大発明がいくつかある。
「道徳」「倫理」「信仰」「戦争」「法」「立場と階級」「権力・権威」そして「国家」「共同体」という思想。
これらの発明を「論理」やら「安定」というツールでうまいこと切ったり貼っつけたりして、もともとのチグハグもバラバラも、やりたい放題も、綺麗にヤスリをかけて、最終的に「誰か」の都合に合わせた風景に作り替える。

個人個人のわがままについてのデメリットがインプットされ、
「共同体」における公益こそが常識とされる。
社会主義、共産主義、民主主義、資本主義・・・しゅぎしゅぎしゅぎ・・・、さぁ、好き(しゅき)な支配者は誰だ。
そういえば、
誰か「王様」の姿をみたことがあるだろうか。
21世紀も18年も経ったというのに。
1990年のあの晩、僕は「裸の王様」をみたんだよ。
でも、言い出せはしなかった。
1人ぼっちの時ですらね。いつだって、自分が自分をみているんだ。
冷たい目をした監視官みたいに。
だから僕は負の念をもって瓶をかき混ぜながら、自分自身にすら聞こえないように
「王様の耳はロバの耳」と嘘をつく。
いつか僕は神様に消されてしまうかもしれない。
そして僕は神様を殺してしまったのかもしれない。
僕のせいで、僕がもっと・・、僕が僕が僕が。
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自分の心の声の半分は、瓶に封じ込めて、
もう半分は、不安と一緒に掻き消すかのように、
爆音を聴いては、ノートに何ページも文字を書き殴ることに集中する死んだ目をした14歳。時に大きな声で歌った。何度も何度も。
罪悪感と自己の自意識への呪いの言葉がつらつらと出てくる。
あのノートは今も、あの部屋に残っているのだろうか。
世界の中心と日の光のあたる場所
 『蟲毒』の生まれたとされる中華人民共和国。
「華」とは、「咲き誇る」「すばらしい」みたいなことを指すらしい。
咲き誇るすばらしい世界の中心。
そして、日本は、書いてそのまま、太陽のもとにある国。

でも、きっと、中国でも、日本でも、
光が強ければ影も強く、裏の闇に潜むようにして生きている人がたくさんいる。

裏の闇、街の影、人の心の奥にある本当はわがままにしたかった欲望。
歴史が生まれて、何万年経ったってね。
政治の中心でも、法の中心でも、たくさんの人の前でだって、
気持ちよいくらい嘘をつける人達もいる。
歴史が生まれて、何万年経ったってね。
法律という人のつくったルールの内側でも、外側でも、
日の光の指す明るい場所でも、夜の闇の中でも。
論理が生まれて、何万年経ったってね。

たくさんの人を殺めた人達が、今日、死刑台の階段を上がっていったよ。
彼らの頭の中にあるのが贖罪であったならいいななんて鈍(なまく)らな頭で考えてみる。
でも、何が頭の中にあったとしても、「死」は「死」で、
その「死」は人の世が決めた「死」だ。 
彼らの世界の中心には何があったのか。
彼らは世界の中心にいれたのだろうか。
そして彼らの死刑を執行に関わった人達は、どういう気持ちでこの暴風雨を過ごすのか。
光の下にあるはずのこの「国家」という「共同体」の中で。

思えば、この地球は一つの瓶で、
僕たちは、それぞれのもっている毒で、
誰が最後まで残るかを競い合っているのかもしれないぜ。
支配者たちは、もう織り込み済みさ。

それでも、まぁいい。
地球そのものが『蟲毒』であったとして。
世界そのものが「共同体」では、なかったとして。
支配者たちがあぐらかいてようとも。

僕は、きっと、光のあたるはずの「日ノ本」で
光のあたっていない場所を今日も、歩くだろう。
光のあたらない場所で、
ひそひそと自分にすら聞こえない声で、何かささやきながら、
手元にある瓶をかき混ぜ、黒の上に青や緑のオーロラを浮かばせながら、
大きな音で音楽をかけて、自分の不安や自意識を掻き消そうとする人をみつめるだろう。
彼らのうちの何人かは、大きな声で叫ぶかもしれない。
彼らのうちの何人かは、ただただノートに文字を書き殴っているかも。
そのノート、よくみてみると、あれ、こんなところにあったのは、
あの、俺のノートじゃないか。
手元にある瓶は、あれ、あの白い瓶じゃないか。

生きながらえて「日本のおっさん」になった僕は、
そういう彼や彼女を見つけた時には、ちゃんと大きな声で叫んでやろうと思うんだ。
「王様は裸じゃないか」って。

そうだな。今夜、僕は叫んでやる。
「王様は裸じゃないか」

ギターをもっていなくても、がなるようにして歌うんだ。
白い瓶が震えて割れるくらい大きな声で僕は、叫んでやる。
「王様は裸じゃないか」
「王様は裸じゃないか」
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