ガルベス日記#5サガン鳥栖というクラブを愛する事
おっぱぃようございます。
2022年2月4日はサガン鳥栖の25回目の誕生日です。ちなみに同級生には中条あやみ、桜井日名子、オコエ瑠偉、アヤカ・ウィルソンなんかが居ます。考えてみると、この25年間、良い事も悪い事も様々な事がありました。決して平坦な道ではなかったように思います。
前身の鳥栖フューチャーズが解散し、サガン鳥栖が誕生したのが1997年の事です。当時は専用の練習場も無く、練習ウェアもバラバラでした。
誕生後も幾度となく経営危機に見舞われ、何度も解散しそうになりました。チームの成績も振るわず、J2で年間3勝だった事もあります。
そして2011年。J1に昇格する事になります。正直言ってサガン鳥栖がJ1に昇格するなんて夢のまた夢だっと思っていた事もあります。ほぼ昇格を手中に収める事になる徳島戦の前日、通勤途中のラジオ(ガッツモーニング)から絢香さんの「みんな空の下」という曲が流れてきました。「何度も高い壁乗り越えてきたから、何も怖くない」という歌詞を聞いて僕は運転ができないくらい、嗚咽しながら涙を流したのを今でも覚えています。
昇格した瞬間から各方面から「降格候補」に挙げられました。僕もはっきり言って「直ぐに降格してしまうんだろうなぁ。まぁ、このクラブを長年応援したご褒美と思って精一杯楽しもう!」と思っていました。(関係者の皆さん、誠にごめんなさい)それがどうでしょう、気付けばもう10年以上このJ1という舞台で戦えています。どんなビッグクラブや金満クラブと言われるようなクラブでも一つ戦略を見間違えると降格してしまうような厳しい世界です。そんな世界でこのサガン鳥栖というスモールクラブが10年以上トップディビジョンで戦えているのは、僕は誇って良い事なのではないかと思います。
J1に昇格し、立派なクラブハウスができました。スポンサーさんにも沢山付いていただけるようにました。閑古鳥が泣いていたスタジアムは、今では沢山のさポーターで埋まっています。本当にあの暗黒時代と言われる時代を知る身としては嬉しい限りです。
まだJ2だった時代、「サガン鳥栖を応援している」というと、「何で?あんなに弱いのに、近くにアビスパがあるじゃん!」って言われる事が多々ありました。しかも、鳥栖市民にです。悔しいですが、当時の僕は言い返す事ができませんでした。学校でもサガン鳥栖が話題になる事などほとんどありませんでした。本当に怖いのは好き嫌いではなく、「無関心」である事だと僕は思います。それが今では、サガン鳥栖のユニフォームを着て登校する小学生を数多く見かけるようになりました。
あの鳥栖市民からもほとんど見向きもされなかったクラブが今では「鳥栖市の誇り」と言ってもらえるようになりました。
考えてみると、坂田先生、育夫さん、井川さん、ユンさん、Cygamesさん、明輝さん、内田会長と、サガン鳥栖は危機に陥る度に救世主が現れ、その度に強くなってきました。本当に人の出会いに恵まれたクラブだと思います。
僕には夢があります。
まず一つ目はこのサガン鳥栖というクラブが未来永劫、この地域の宝となり、沢山の人々に愛されるクラブになる事。
そしてもう一つ。やっぱり、タイトルを獲りたいです。「何を馬鹿な事を言っているんだ!現実を見ろ!」と思われるかもしれません。しかし、チャレンジをしないと成長はできません。試験勉強をする時に赤点ギリギリを狙って勉強する人は居ないと思います。まず、優勝を目指し、ACL、一桁順位、残留と目標を変えていくものだと思います。サガン鳥栖は「育成型クラブ」です。だからと言って強くなってはいけない道理はありません。時間は掛かるかも知れませんが、いつしか必ずタイトルホルダーになりたいです。
僕は、このサガン鳥栖というクラブを通して良い事も悪い事も様々な事を経験させて貰い、色々な人と出会わせて貰いました。興味が無い人から見れば、「ただのサッカーチームでしょ」って思われるかも知れませんが、僕にとってはただのサッカーチームでは無いのです。本当に感謝しています。このクラブに恩返しをする為にこれからもサガン鳥栖と共に生きていきたいと思っています。
今も、経営的な問題や主力の大量流出など暗い話題が続いています。あのJ2での暗黒時代でも、当時はサガン鳥栖の試合が楽しみで仕方がなかったし、「今はあんな事もあったなぁ」と笑いながら話せています。今は辛い時かも知れませんが、将来きっと「あんな事もあったね」って話せる日がきっと来るはずです。
サガン鳥栖に関して、色々言われるかも知れません。でも僕は、誰がなんと言おうと、この小さな街、地域にサガン鳥栖というプロスポーツクラブが存在する事を誇りに思います。
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