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ペトロの真実、そして私の真実とあなたの真実

たまたまなのですが、同年代の牧師による、ある日の日曜礼拝を動画で見ました(本当に便利な世の中ですね)。

その日はペトロがイエスに出会った場面を題材にしていて、牧師は、牧師とは思えないような(実際、彼は牧師とは思えないようなやんちゃな経歴をお持ちなのです)フランクで小気味よい語り口で、聞く人を惹きつけていました。

ガリヤラの漁師シモン・ペトロの兄弟はその時、極貧の淵で喘いでいました。いくら水面に網を投げ入れても魚は一匹も獲れないのでした。
そこへ、イエスが通りがかり、もう一度網を入れなさい、とペトロに言います。いくらやっても無駄なのです、と独りごちながら仕方なしにそうしてみると、驚くことに、網いっぱいに魚がかかったのです。そればかりではなく、獲れた魚を船にあげてもあげてもまだ獲れて(まるで古いフィルムで見るような、ニシン、ハタハタ漁最盛期の、魚で溢れそうな漁船のようですね)、ついには乗っていた船が、魚の重さで今にも沈みそうになったのです。

船が沈みそうになった時、ペトロの心境はどうだったのでしょう、と牧師は問いました。要するに、「うわー、オレ魚が獲れすぎて死ぬ!!!」という時の。

私は思わず笑ってしまいました。しかし牧師の話を聞きながら、なるほどなと思ったのです。

聖書には淡々と、この出来事の後ペトロ兄弟がイエスに付き従った、と書いてあるのみですが、いわゆる奇跡を目撃したとは言え、代々の職業を放棄してすぐに旅立つほどのこの決心は、どこから来たのでしょうか。
ついさっきまでペトロは、貧しさと飢えのために、死を垣間見ていたでしょう(このままでは死んでしまう)。ところが今、望みに望んだ大漁という豊かさのために、その豊かさが留まることを知らないために、同じく死を垣間見ている(このままでは沈没して死んでしまう)。

なるほどな、と思いました。
ただひとつの罪のない切望がかなえられることによって、ペトロの運命は180度どころか360度変わってしまうことろなのです。
貧困による「死」から、豊漁が叶えられ、それを通り越してまた「死」なのですから、紛れもなく360度です。

その、人智を超えた、人間の価値観や概念や視座を超えた、もはや人間の手には負えない何ものかからの、私という人生への贈与。それを目の当たりに見せられて、ペトロは、もう、心底サレンダーするしかなかったのではないでしょうか。

自分の願望があったとして、それが一時は叶ったとして、それが大局的な人類の運命というものの流れにかなっているのかどうか、それは自分がコントロールできないとしたらならば、サレンダー以外に何があるでしょうか。

そうしてペトロは、イエスの誘いし川の流れへと全身を投じた、、、

、、、のかもしれません。

私はキリスト者ではありませんが、それでも、聖書に書かれている事が、本当に事実なのかどうかは別にしても、そこに真実はある、と思うのです。

聖書コーランも仏典も、小説も親の小言も、そこに何かを発見したならば、それは私の真実、あなたの真実なのです。それは誰も否定できるものではありません。

私の真実とあなたの真実は同じではないかもしれません。むしろ全く同じ真実には絶対にならないでしょう。それらは私たちそれぞれの経験と記憶に由来していて、私たちに同一の経験などないからです。

けれども、もしも、その私の真実とあなたの真実とを向き合わせてみて、一緒に無条件にそれらを眺めてみた時に、そのあわいにぼんやりとでも顕れる気づき。その発見が、真の真実(笈田ヨシの言葉を借りればザ・真実)ではないでしょうか。それは人知を超えるゆえに決して言葉では説明しきれないものですが、逆に言えば、

私たちが日々、言葉のかぎりを尽くして守り育て武装させ、頑なにまでなった私の真実を持ち寄ってみる事で、言葉にならない真の真実というものを、対消滅のようにして真ん中に浮かび上がらせる事ができるのかもしれません。


だから私はこうして今日も、拙い言葉のかぎりを尽くして、私の真実をここに打ち明けているのです。

ちなみにヘッダーの魚はマトウダイ、ヨーロッパでは「聖ペトロ」とも呼ばれていて、腹にある丸い模様は、奇跡を起こす時にペトロが掴んだ跡、と言われています。

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