汐(しお)の情景 一話

   一章

 秋の夕暮れ時に吹き付ける少し冷たい海風は頬に心地よい刺激を与えてくれる。遙か彼方に佇む真っ直ぐな水平線と、薄っすらと覗く美しい稜線は何処となく幻想的に映る。

 黄昏れに充たされた情景に誘発されるように細めた目で遠くを眺めていると向こう岸に見える淡路島はまるで異国のようにも思えて来るのだが、明石海峡大橋を渡る車とそれをも追い越さんばかりに疾風の如く飛び行く鴎の姿には現実と幻の世界を結ぶ魔法のような力を感じなくもない。

 日が沈み切る前の赤みを帯びた満潮時の海原は穏やかな波の中にも速い潮の流れを以て繊細な水面の動きを悟らせてはくれない。その上を悠然と泳ぐ船は遅いスピードながらも確実に進んでいて、消え行くまでのゆったりとした時の流れは人の心に安らぎを投げ掛けて来るようだ。

 目を移すと魚釣りを楽しんでいる人が無言の裡に竿が曲がるのをじっと見つめている様が滑稽に見える。そして僅かでも反応があればすぐさま竿を立てる俊敏な業には野生の動物のような真剣さが窺える。
 それにしてもこの緩やかな曲線を描く一本の長い見事な吊り橋は、眺めているだけでも惚れ惚れするような雄大さを誇っている。海の無限に人の有限。人為的に作られたものとはいえ自然に負けないぐらいのこの美しさは、寧ろ自然と同化する事に依ってその真価を発揮する事が出来たに相違ない。だとすると人の力も侮れない訳だが、それを十二分に活かしてくれる自然という現象にはやはり敬服せざるを得ないだろう。

 明石大橋に限らず今では日本全国至る所に設けられた数多くの橋。その影響でフェリーの往来が減少の一途を辿り、風情のある景観を楽しめなくなったという意見には少なからず賛同出来る。だがそれとは裏腹に美しいものにただ見惚れてしまう正直な気持ちは人の感情の脆弱性を表すものなのだろうか。

 何れにしても広大な海を眺めていると心が大らかになる事も確かな話で、如何に神経質な者でも何かを口ずさんでしまうのが自然の理であろう。

「綺麗やな~」

 独り呟く英和の顔を横目で見た康明はこう答える。

「あぁ......、何や、それだけかいや? オチのない話はすな言うねん」

「あの人、釣りしとうように見せかけて黄昏れとうだけかも知れへんでな」

「薬(ヤク)の取引きでもしとんやろ」 

「なるほどな、なかなかの役者やな」 

 小学生からの付き合いであった林田英和と大庭康明の二人は地元神戸の国道2号線を単車で走る時、この舞子浜で一服する事が多かった。 

 まだ高校生だった二人の性格に共通する点ははっきりとしない。それこそ理屈抜きの関係性であったとも思われるが、強いて答えを見出すならばただ優しい、お人好し、真面目という所ぐらいなものだろうか。

 特に康明は小学生時分からお笑い風の根明なキャラで何時もクラスのムードメーカーのような存在であった。それに引き換え英和はどちらかと言えば少し硬派な性格で、暗くはないまでも孤独を好み、古風で保守的で狷介な人物に見える。

 見方に依っては対極に位置するとも言えるこの二人が連んでいた理由は、互いの性格を超えた何か因果因縁のようなものがあったのかもしれない。それは図らずも両者の人生、この現状が物語っているような気もするのだが、互いの若さは必要以上の詮索を好まなかった。

 英和が吐く煙草の煙は真っ白な色で舞い上がり、何の芸も見せる事なくただ大気に溶け込むように虚しく消えて行く。それに引き換え康明は器用にも真ん丸な煙を二度三度と浮かび上がらせるのだった。

「お前は何調子乗っとうねん、ヤンキーでもあるまいし、そんな下らん事せんでええから、大人しくしとかんとまた祐司にどつかれるど」 

 英和の言は適格に的を得ており、言われた康明は多少なりとも気を悪くしていた。

「お前の言い方には棘があるでな、もっとボキャを増やさんとあかんわ、俺はそんな事全然気にしてへんしな」

「流石やな、その性格は羨ましいわ」

「嫌味かいや」

 他愛もない話をしてから二人はまた単車に跨り国道を東へとひた走る。少しスピードを上げるとその何倍もの強い風が身体に攻めかかって来る。でもそれを全く苦にせず風を斬って走る二人の気持ちは昂揚感の中にも安らぎを得ていた。

 後ろから迫り来る夥しい車の列や、前方を塞ぐ大型トラックにも全く動じる事なく狭い隙間をこじ開け颯爽と磨り抜けて行く。須磨辺りから明るく成り始めた街並みは帰宅ラッシュ時の慌ただしさを漂わせていたが、信号待ちをしている人々に見せつけるようにして車を追い越しながら一団の先頭を突き進む二人の姿には、まるで騎馬隊の先陣を任されたかのような勇猛果敢な勢いがあった。

 そうして難なく地元まで帰り着いた二人は挨拶代わりの軽い笑みを零して別れる。無免許であった者同士がそこそこの距離を流したにも関わらず無事に帰って来れたのは奇跡なのかもしれないが、全く不安を感じなかった理由は正に根拠のない自信が齎した無形の力に起因するものだろう。

 地元にある港の誰の目にもつかないような、廃車が無残に放置されている場所の片隅に単車を停め家に戻る時、心なしか親に対する後ろめたい気持ちはあったものの、そのすました表情に卑屈さは感じられなかった。

 そして家に入り当たり前のように夕食を頂く英和は独り物思いに耽る。単車さえあれば何処にでも行ける、自由を手にしたんだ。将来などどうでも良い、このままで居れたら言う事は無い。年など取りたくない、中年になど成る訳がない、もしそうなっても時間は逆戻りするのではないのか。しないのならば潔く死ねば良いだけの話だ。

 とはいえ親やご先祖様達のお陰で今の自分がある事に感謝する彼はその歴史を蔑ろにするつもりなどさらさら無く、飛躍した考え方である事も十分認識していた。色んな思慮を巡らす事が人の性なれど、この相反する二つの想いは自分自身を悩ませる。

 これこそが若気の至りなのだろうか。世の中を舐め過ぎているのだろうか。しかしそんな常軌を逸したような考え方の中にこそ夢もあるのではなかろうか。無論計画立てて物事を考察する必要性を否定する訳でもないのだが、たとえ人様に笑われようともそんな淡い夢を抱く事が出来るのは短い人生の中でも若い頃というごく僅かな時間に限られているとも思える。

 英和が考え事をしていると察した母の喜恵子は徐に声を掛けて来るのだった。

「あんた何考えとん? ちゃんと勉強しとんか? 最近帰りが遅いみたいやけど何処行っとん? まさか悪い事でもしとんちゃうやろな?」

 一瞬動揺した英和ではあったが、母の慧眼を危惧するその心情は軽率にも逆に質問で返すといった作戦を選んでしまう。

「母さんは勉強しとん? 言うたら悪いけど母さんからは知性があんまり感じられへんしな、それに俺なんかの事心配するぐらいやったらこの日本の情けない現状を憂慮した方がええような気もするけどなぁ~」

 少々短気であった母は思わず声を荒げて言い返す。

「あんたなんかに何が分かるねん! あんまり調子乗っとったらあかんで、みんな必死に生きとんやで!」

 母が怒った時の表情には人の奥底に眠る強烈な恐ろしさが感じられた。それは外見よりも寧ろ内面に秘めた生真面目であるが故の余りにも馬鹿正直な露骨な感情の表れで、たとえ形だけの力でねじ伏せようとも是が非でもひれ伏さないであろう執念にも勝る矜持が感じられる。

 それでも己が思想信条を変えようとはしない英和の些か気難しい性格にも母を困惑させるだけの材料が揃っていたに違いない。

「ま、調子乗った事は謝るけど、どう考えても世の中おかしいとは思うけどな、とにかく親孝行だけはするつもりやから心配せんとってーや、な」

 返事はしなかったものの、母は息子の優しい言葉に感動していた。

 数年前に夫と死別した英和の母は一時期は自分も死んでしまいたいぐらいに落ち込んでいた。でも再婚もせず、先に逝ってしまった夫を恨みもせずに元気に生きて来れたのはその意志の強さは言うに及ばず、長男である英和の存在も大きな理由の一つになっていたとも思える。

 英和の下には弟と妹が居たのだが、英和だけは特別に母の寵愛を受けていた。長男を愛する母の気持ちには普遍性があるのだろうか。それこそ歴史が証明しているとも思えるが、並々ならぬ母性愛を感じ取る長男の気持ちも明らかに現存するもので、それが意図せずに何時の間にか互いの心にプレッシャーを与えてしまう事も往々にしてあるような気もしないではない。

 無論そんな事を盾にして現状から逃れる気などさらさら無い訳だが、余り深く掘り下げて考察してしまうと返って相反作用を生み出す事にも成りかねない。

 物思いに耽る事を嫌わなかった英和はふと自分と母、両者の気持ちを紐解いて行こうとしていた。するともう一人の同級生から電話が入って来る。旧知の仲とはいえ、思い悩んでいた英和にとってこの連絡は実に有難く感じられるのだった。

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