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モヤモヤと自分の時間の連想から

何から書き出そうかと、いろんなことがモヤっと思い浮かんではの繰り返しでモヤモヤしています。藤平さんの哲学対話のルールの中に「モヤモヤしても良い」と......。とは言え、一人でのあれやこれやの思いつきや考えがモヤついているのです。笑われるかも知れませんが、あれやこれやを個人の中での対話だと思えば良いかと都合のいい勝手な解釈をしている、研究員の谷内です。

モヤモヤのきっかけは、オンラインミーティングでの「自分の時間」です。「自分の時間」を言葉として知ってはいても、その意味することをほとんど意識せずで、考えたことが無かったからだと思っています。ところで、退職後のことを考えて興味のあることを探したり、趣味を作ることを 勧められている記事を思い出しました。この勧めは、仕事優先の会社人間に「自分の時間」を考えるようにとの一つの例かも知れません。 ここで自分のことを振り返って考えてみると、常に自分がやりたいこと、本当に自分に向いていることは何だろうかと模索しながら歩んできたように思います。

さて「自分の時間」って→ 何らかの拘束を受けない、されない時?→ 自分の思うがままやりたいことが出来る時?→ 個人の自由になる時?→ ワガママでいい時?→ 何も考えなくていい時?→ 何もしなくていい時?→ 勝手気ままに過ごせる時?→ 我が道を行く時?→ のびのびしてる時?...... などが連想されました。こんな時を求め続けているのが私なのかも知れません。でも逆に、あえて拘束を受け入れ、やりたいことを我慢し、気ままに振る舞えずにいるというのが現実なのでしょう。連想の逆の所作行為と時間を経てみると、石の上にも三年ではないですが、どうすべきかの妙案がモヤッと見えて、分かってくるように思えるのです。 私はこのようなたわいもない連想をしつつ逆を含めて情景を思い浮かべることがよくあります。

話題は飛びますが、近ごろ労働賃金や労働時間に労働人口の減少から、定年の在り方も問われています。かつて55才が定年だった時代、労働組合が60才定年を勝ち取ろうとしていました。私が勤めていた会社の組合も1980年前後に定年延長を訴えていました。55才定年が出来た時代からは平均年齢も上がり、定年延長には賛成でした。と同時に30才や40才、入社10年や20年での選択定年を提案したところ、みんな不思議そうな顔をしていたのを覚えています。提案のすぐ後に人事部長から直接電話があり「組合が一生懸命やってるのに、ややっこしい、いらんことを言う な!」と言われたのです。ここで、自分の時間に繋がるのですが、企業に何年か勤めていると、その企業や仕事が本当に自分に合っているのか、そして自分の時間のあり方も朧げながら分かってきます。定年選択は、60才、65才まで納得のいかない仕事の場にへばりつかずに転職しやすくなるでしょうし、キャリアアップを目指す人にとっても都合がいいとは思えないでしょうか。 余談ですがこの話を10年ほど前に、とある新聞社でかつて組合長だった知人に話したところ、「いい案だね。でも当時の人間には理解できないよな~。早すぎたな。先へ行きすぎだよ。」と 笑い話になりました。ちなみに、その知人は新聞社退職後に自分の時間を得て小説家になり、自分らしく過ごしている代表的な一人ともいえるでしょう。

ここでまた、自分らしく過ごせる時 → 自分のための時 → 個人の自由になる時、と連想され、自由 → 暇 → 閑 → 勝手 → おもむくまま → のどか → 春霞 → 春の海 → ゆったり → リラックス......そして、突如、春の海から「・・・ひねもすのたりのたりかな」の句を思い出しのどかな気持ちになってます。

文/谷内眞之助(Safeology研究所研究員/兵庫・神戸CSの会特別会員)


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