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春を待つ

あの庭で揺れていたマロニエの花がそれと気づくのに随分と時が流れた。

6年と6ヶ月と20日。
あの頃は、限りなく夏に近い春。今は、秋真っ只中。今日はやっと寒い。
金木犀が香りだけ残して、銀木犀の出番が回ってきた季節。
控えめで、真新しくない香りに気付けるのは、私たちくらいだろうね。

私は、忘れっぽい。
だから、忘れたくないことは、安心して忘れていけるように、手帳に書く。
忘れたいことは、それはそれで書かないと忘れられないから厄介。
ふと昔の手帳を開くと、昔の私が書いた文字が我が物顔で
「ね、忘れてたでしょ?書いててよかったでしょ?」と感謝されたがっていた。
「うん、ありがと。こんなに大切なことを忘れるくらい私は薄情で仕方のないやつ。」

水色の革の手帳曰く、草木が芽吹く季節、飛行機雲のやけに多い古い街で、
どうやら私は恋をしていたらしい。思い出せてはいない。
あァ、あれは、春だったんだね。

彼と学校帰りのまだ明るい時間に飲んだビール、私の髪が鬱陶しい長さになると、本格的な鋏を持って来て整えてくれてたこと、弟と一緒に住む家に招待して振る舞ってくれたイラン料理。そんな日常の書かずにはいられなかったことたちが、仲良く共存する手帳を愛おしく思った。

手帳を頼りに時期を特定し、Google Photoで写真を遡った。
引っ越したばかりの家の庭で、古い棚に白いペンキを塗る兄弟。
若くて小さな白い犬は、芝生にお腹をぺったりとつけて舌を出して笑う。
まるで太い蝋燭のように天に向かって咲く白いマロニエの花は風に身を委ねる。

彼がいつしか贈ってくれた言葉で、私がすっかり忘れていた言葉で、手帳にしっかり書き留めていた言葉で、私をまた喜ばせてくれた言葉がある。

「19から20になる時、君は、ぐっと綺麗になった。
 29から30になる時に、またもっと綺麗になるよ。」

久しぶりにこの言葉に再会して、未来に行って確かめてきたような目で言われたのを思い出した。私には、お返事に見合うその瞬間の気持ちを表す手持ちの言葉が無くて不甲斐なかったことも一緒に思い出した。

未来へ進んでいく時に、畏れようと思えばいくらでも怖気づいていられる時に、少し気を紛らわしてくれる、この旅に必要な言葉。それが私の記憶力を過信したせいで、何にも残されず、忘れ去られてしまわなくて良かった。


「あなた結構テキトーだけど人間関係だけはシビアよね。離れていく。」
「そうかな、そうでもないと思うけど。」
「ひとことで変わるじゃん。」
「それはそうかも。でも、ずっと一緒には、いられなくない?」

ある日の友だちとの会話。
ふと自分から発せられた言葉に我ながら驚きと納得が入り混じって鳩尾で溶け合った。
どんな言葉で、人は傷つくか分からないから、思ったことをすぐに言うのは避けたいけれど、どう考えても、これしか出てこなかった。

「ずっと一緒にはいられない」

いつしか私の根底に居座って離れない概念が、見てないようで意外と見てる友達に炙り出された。
あなたとも離れていたけど、こうやってまた会えてるじゃない。
昔一緒にいられなかった人の隣で、今一緒にいられない人たちのことを思った。
こんな風に、今一緒にいられない人たちとも、また一緒にいられる時間が私の人生の中で、少しでも一度でも、あるかな。
あなたが今一緒にいられない人と、また一緒にいられる時、喜び合えますように。
あるいは、時間が経ったからこそ言えることを、何気ない風で伝えられますように。
「ら」抜き言葉じゃないか、「ら」が無駄に多くないか、気になりながら、願う。
ラララ、ララ。

生まれて初めて、生まれて、生まれて初めて、死んでいく。

どんな人とも、自分とでさえも、いつかお別れが来るのだから、せめて、一緒にいられる間は、できるだけ喜び合っていたい。
光の方に走って行って、実は、虚無だとしても、それを笑い話にして、そんなドジも自分を愛おしく思う材料にするぐらい、私は、抜け目がない。
無駄な駆け引きや、スカした顔するような私だったら、可愛くないじゃん?と宥めていたい。

いつか、その人のことを好きだったことさえ忘れてしまうほどに、日々は、あっけなく過ぎ行くし、その頃には、もう今更、会えなくなってたりする。
もう会えない人の言葉を携えて、私が今日を昨日へ送っていけるように、明日を手繰り寄せられるように。
あなたにも然り。
もう会えなくなった時にも、私たちの思い出が各々の生きる助けであり続けますように。

願いながら、ラララ、あなたと、あなたと、あなたと、、、ふたり並んだ河川敷、朝帰り、参道、石畳、通学路、線路沿いを思い出す。
また会える日まで、元気にしていてね。私も元気でいるからさ。
忘れたり、思い出したり、手帳に頼って、筆を執りつつ。
自分の記憶力を疑って。

彼は、今も元気かな。
元気じゃない時、隣にいてくれる人がいますように。
あの白い小さな犬は、もう落ち着いたお年頃かな。
ペルシャ語の「小さい犬」だけ、なぜか空で覚えてる。
マロニエの葉が色づく季節。
花の蕾は、今もあの庭で、春を待っているのかな。






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