見出し画像

理性と合理性

ある行動が何かの問題を解決したとする。たとえば、水をかけたら炎が消火された。とか、空を見たら天気が予測できた。とか

このとき、ある行動には問題を解決するための合理性があったと言える。

水をかけずとも、砂でもっと安全に消せたかもしれないし、今の世の中、精度の高い天気予報があるのだから、それをアテにして身につけるものを決定するのがふつう合理的というものだ、が、ともあれ「火を消す」「今日の天気を予想する」といった問題・目的に対して、それを果たすだけの力が「水をかける」「空を眺める」にあったとは言える。


さて、人間は偶然この合理性に出会うことがある。青カビのペニシリンという有名なものから、コーヒードリッパーの底板が割れてしまったが、淹れている最中に割れた部分からカップへ砂糖を入れたり、コーヒーの量をうまく把握したりできるなど、細やかな生活のレベルにまでこの出会いは存在する。

この時、人間は確かに合理性の力を得ているが、そこに、理性があったとは言いづらい。

ここでの合理性の説明に沿うように、ここで新たに理性を説明するとしたら、「合理性の再現を目的として、ある行動をほかの行動より優先させる」という説明ができそうだ。

昨日は火に水をかけたら消えた。 今日も火を消したい、なので、他にも火に息を吹きかけるということもできるけども、それらをしないで水をかける。 知性や理性が実現している営みとは、ひとつにはこうしたことがあると言えそうではないか?


粘菌が迷路を解く、という話を聞いたことがある

粘菌は一見して、合理性のあるふるまいを取ってはいるが、そこには他の行動の可能性とか、再現を目的に置けるような記憶能力はおそらく無いだろう。 ただ与えられた特性に淡々と従っているだけで……


そして他者に関しては、この理性があったのかどうか知ることは、とても困難だろうし、哲学的な立場しだいでは不可能であろうと思われる。


合理性はそこらじゅうに存在し、まだ理性によってそれが目指されたことがないまま、言葉にされないまま我らに益をもたらし続けているかもしれない。 私はこのことを考えると、底知れぬ畏敬の気持ちが他者とか自然に対して生まれてくるのだが、それらはやっぱり愛想なしに、ただそうであるだけなのである。

色々そのままにしちゃっています