noteみたいな文章が書けました
「考えさせられる」という、言ってしまえば紋切り型の感想は今やひとつのジャンルとなり、動画配信サイトにおいてはおすすめの文言に使われていたりする
きっかけがあって、自分で何かを考えることはその思考内容や成果を抜きにしても、考えることのみでも、十分に楽しいことであるという事実がもう一般的になりつつあるのではないか。
ひとくちに考えると言ってもさまざまだが、ここではそれら思考と呼ばれるものを細分化・分類化させはしない。
私が気になったのは、一体私はどこからどこまでを何によって考えさせられているのか、それらの射程範囲の境界はどのように引かれているのか? である
これのもっともわかりやすい例は語彙で、なにか鳥類に関しての語彙が豊富であればあるほど私は鳥類について考えることがラクになり、さほど労せずに表現ができるだろう。 もちろん逆に知らない言葉によっても考えることの難易度は変動する。 知っている言葉と知らない言葉の塩梅によって考えさせられることの境界は引かれている。
このときの面白さは、本来道具として扱うべきであるはずの語彙によって、目標・目的であるはずの成果物、ここでは文章の内容が制限・決定されるところにある。
この道具に使われる感覚の中で、もっとも個人的に影響が強いと感じているのが“論法”である。
例えば逆説は一時期多用していて、今現時点からその時期の文章を見返すとあまりの頻度に身が強張るほど恥ずかしくなる。
「普通言われているのはこうだ、しかし実態は……」
「一般的にはそうだが、今回は特殊で……」
などなど、アイデアやひらめきの中でも「実は……」系にカッコよさを見出し、意識的に重きを置いてしまっていたからこそだと思う。
他には、論法とも言えないかもしれないが、比較と分類は道具の中でもいちばん手前の方においている感覚がある。
「見比べてみると相違点はここで共通点はこれだ」
先ほどの逆説とコンボさせて
「一見これらは同じものだが、よく比較すると違うのだ」
といった具合である。
も〜これを使って何かを言うのはラクだ、すんごいラク。息を吸うようにとまでは言わないが、水を飲むくらいの容易さがある。
だがこれらばかりを使っていては、うまく思ったことを書き表せないようなケースも当然存在する。 言いたいことのすべてがその場において「実は……」な事実ではないし、分類に頼りすぎて的外れなペアを作り、成果の少ない比較検討をしてしまいかねない。
そのときそのときに応じて効果的な文章というものは異なってくるため、なるべく自覚的に論法を使い分けていくのがいいだろう。
↑これは反省と教訓だ。読書感想文における「自分はバカでした」論法に通ずるものがある。まとめの文章で自分の主張を混ぜたいとき、「ジブンもつい昨日まで気づいてなかったんスけど……」という顔をすることで親近感を演出すれば、言っていることが聞き入れやすくなるかもしれないという打算がある。きわめて卑小である。
私は個人の主張なんてない場合にも、文章が書きやすくなるから……とつけ足したりする。私がなにか説教めいたことを言っていたら、ほとんど無視していい。
この手の論法や様式は、実際に効果的で親しみやすく、読みやすいかもしれないが、早押しクイズの押しポイントを見つける時のように「ああこういうことが言いたいのね」と早合点を誘発する危険性がある。
ああまたやってる また反省しちゃった
便利だけど、過剰なのもやばいよってことです
急にくだけてみせるのも様式ですわ、もう
単行が連続するのはインターネットならではですね
Twitterにそういうニュースのトピックあるよね
冒頭で言ったことを最後に回収するのも様式だ
存在しない型を作って 作ってからがんばりたい
守破離の破だけやりたいよなあ(あかね噺おもしろい)
もっと、もっと言いたいことは深かったと思うのですが、また様式に邪魔されて「道具に使われるな」とかへ着地してしまいそうです。
しかし、先達が発明してきた道具を使って自分に必要な分の世界を切りひらくことは、どこか運命のようなつながりを感じさせて、よいものでもあるんですよね。
実は、道具に使われることは決して悪いことではないというのも、様式にならって書いておくこととします
色々そのままにしちゃっています