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冗↑談↓やんか⤴てぇ↓

 自分の興味の中心的な位置に、「嘘」がある。嘘はいかにして可能か? 嘘の巧拙とはなにか? 嘘をつくべきシーンとそうでないシーンはどこか? なぜ嘘をついてしまうのか

 子どもは、自己保身のために嘘をつく。 もっとも原始的な嘘だろう。 これは技術が未熟であるから、使われる事は大した問題ではない。 むしろひとつの教育の機会になるだろう。 大人は「嘘はバレてしまうよ」と言い聞かせる。

 大人によっては「嘘をつくならバレないように完璧にこなすべきだ」とか「どのような場面であっても、嘘はいけないよ」とか「人を笑わせるような嘘をつきなさい」とか言うだろう。

技術を磨きなさい、嘘に頼らないでも大丈夫なやつになりなさい、使い道を広げなさい。
これらはいずれも、実践にあたってはそれぞれに固有の困難さがある

 バレないような嘘を突き通すことは、隠した事実が深刻なものであればあるほど難度はあがるし、それを独力でこなさなければいけない。真実を共有した仲間をつくることは救いになるのだが、嘘を知っている人が多いだけ、外にバレるリスクが大きくなる。

 嘘に頼らず清廉潔白でいることも、そういったリスクの抱え込みを予め回避するという点で必要だ。しかし、不特定多数の心がいつだって寛容ではないことを知っている者は、繕うことのできない失敗を極度に恐れるようになるだろう。
おもしろいのは、嘘の内容に関わらず、「嘘をついた」ことそのものに悪さがあるという追及だ。嘘をつくことは、他者の心を疑い、集団にとっては不必要な個人的リスクを抱えることだからだ。

 フィクションは「人を笑わせる嘘」のもっとも成功した例だが、そこにはもはや陰湿さや悪さがなくなっている。嘘は開けっ広げに多くの人に共有され、全員がそれを嘘だと知っている以上は、それがバレるということはない。

 ひとつ正しいと思うのは、他者はいくらでも嘘をつくことができるということで、それが他者の要件ですらあるということだ。
自分に嘘はつけないとは、自分用の嘘はもはやそれを誰も暴くことができなくなってしまうからだ。自分への嘘が完璧に行われず、自分自身をだまそうとしても騙しきれない場合、それは嘘にさえならない。
他者についた嘘は、どれだけ完璧に隠匿しても世界で一人だけ自分がそれを嘘だと知っているが、その完璧さを保ったまま自分へ嘘をつけば、もはやそれが嘘であることはかなわない。世界のどこにも、その嘘を暴けるものはいない。

 走れメロスの王は自身の疑心を「おまえたちが教えてくれた」と言うが、たしかに、嘘は他人からしか教わることができない種類のことだろう。
放っておけば、自分がついた嘘は嘘ではなくなってしまうからだ。


色々そのままにしちゃっています