見出し画像

くるちゃん祖母の手記を発見する

母方の祖母は数年前、98歳で亡くなった。大往生であった。         晩年は会う機会も減ってしまったが、幼少期は自分の姓を私に名乗らせるほど、 かわいがってくれた。小学校の6年間は同居をすることになるが、幼稚園生の時は2つ隣の町から泊まりに行き、翌日、おばあちゃんの家の近くから送迎バスに乗って幼稚園に行ったこともあった。姉のちいちは、外泊が苦手で送ってきてくれた母と一緒に帰っていった。迷子になった時のための住所と電話番号の暗記は、自宅に加えて、おばあちゃんの家のも言えるようになっていた。遺伝なのか体験なのか、両方なのだと思うが、歌が好きなのも、言葉遊びが好きなのも、おばあちゃんから受け継いだものだと、しみじみする。

私は、6人姉弟の4番目。すぐ上の姉ちいちは、2歳上。母の陣痛が始まったら、おばあちゃんの家に電話をかけるという任務を与えられ、番号を暗記し、黒電話のダイヤルをまわす練習をしてくれた。一方、私は予定日より前に、病院なんて行きたくないよ。と勝手に産まれてきてしまった。2歳と1ヶ月で姉になり、    「ちいさいおねえさん」という意味の「ちいち」という愛称が自然についた。ちなみに私のあだ名の「くるちゃん」は、私が高校生の時に2番目の姉が命名した。

屋根裏の整理をしていると、祖母の手紙類が出てきた。親族からの手紙が主で、 子供の時に私が送った手紙も保管されていた。祖父は第二次世界大戦で戦死して おり、子供の時に見せてもらった祖父の戦地からの葉書を探してみた。すると、 祖母が綴った日記や手記を発見し、思わず読みふけってしまった。

ここのところ、自分を作るために必要なことを考えていて、自分の元となる先祖に想いを馳せることシヴァシヴァ。2代上の時代はどんな世の中だったのか。   歴史や民承を調べて、当時知り得なかったであろう世界の情勢などを合わせて  先祖の生活を空想してみた。そんな時に見つけた、戦時中の手記。(書いたのは戦後。)祖母の筆跡や言葉、知識と記憶がまざりあって、突然、現実味を帯びた。

第二次世界大戦(1939−1945)

嫌な戦争、忘れようと思って生きてきたせいか、年のせいか、         あまり思い出せないんです。1944年4月。二人目の子を産むために、    茨城の実家に帰りました。主人は、駅で貨車の係をしていました。       一人置いて行くのも気がかりでしたが、仕方ありません。           汽車電車は当時、買い出しの人や疎開の人たちで、割り込む隙もない有様でした。大きいお腹をかかえた親が、まだ4歳になってない娘をかかえ、大変な思いで  やっと乗り込みました。田舎に着いた頃は、もう若い青年は見られず、年寄りと 女子供たちだけで、びっくりしました。田舎では食べ物には事欠きませんでした。

5月1日。無事男子を出産し、6月には家に帰って参りました。電灯は覆いをして真っ暗。昼は洗ったおむつも白いものは外に干せない始末。食物は、少々の配給で命をつなぐだけ。隣組の組長さんの指示で防空演習をやったり、焼夷弾が落ちた時に困るからということで、天井の板を外す作業をしたり、それは大変でした。  そのうち、住み込みで働いていた主人の弟が出征。その頃になると、「勝ってくるぞと勇ましく」などという歌は歌われず、町内会長と少数の近所の方に送られて、ひっそりと出征する有様でした。

間も無く、9月15日に主人も出征。もう張り切って出て征きました。私は常日頃、兵士の女房は涙を見せないものと聞かされていたせいか涙もでませんでした。また、内心では、日本は必ず勝つんだという気持ちがあったせいかもしれません。新聞は毎日勝ち戦のみの報道でした。しかし、段々日が経つにつれて、あの人も、この人もと戦死の報せに、内心、これはもしかしたらと思うようになりました。

そんな時、主人の通知で千葉の航空隊の近くで内々で面会できるということで、 二人の子供を連れて出かけました。向こうに着くまでに二回も空襲警報が鳴り、 電車を降ろされて避難させられ、やっと面会できました。

二人の子を、代わる代わるに抱いて、「子供達を宜しく頼む。後継の男の子も産まれて俺は幸せだ。」と喜んでくれました。                  三十分くらい過ぎた頃、また空襲警報が鳴って、面会は中断され、後ろ髪を引かれる思いで別れました。

誰を見ても軍服が体に合っている人は一人もいません。ブカブカの人、短すぎる人有り物で間に合わせたようで、軍部もここまでひっ迫しているかと思いました。持っていった食物も、遠方で身内が来られなかった仲間に全部分けてあげていた主人の姿に、工面して持ってきて良かったとしみじみ思いました。仲間の兵隊さん達も涙を流し、頭を下げて食べていました。その面影が今も目に浮かんできます。この人たちも矢張り。と思うと感無量です。

二人きりの兄弟ですので、あまりにむごく、主人には弟の戦死は聞かせませんでした。

そして、半年後、硫黄島玉砕。その年の4月頃だったと思います。万一、戦争で日本が負けた場合という憶測もあっての事だと思いますが、当地は大事な軍港があり、絶対に燃やさないで米兵が上陸してくる。小さい子供を抱えてる女は全員避難するようにと言われ、また田舎に行くことになりました。2、3ヶ月でまた戻って参りました。防空壕の中に入ってばかり居るのが、たまらなくなる頃、終戦となりました。「勝つまでは。」と思って頑張ってきましたせいか、終戦後の方が大変な暮らしでした。

もう二度と、このような思いは、孫子の代にも味あわせてはならない。永久に戦争はしてはならないと思いを新たに、平和な世界を築くことを願ってやみません。


I'm already happy you feel good in my diary, but you want me to be happy more? If your answer is Yes, don't hesitate to support me!