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なぜか美容院で涙を流しながらカットされている人になってしまった

私は長い間,今の美容院のOさんという美容師さんにカットしてもらっている。

オットも,馴染みの店の主人が引退したのを機に,20年くらい前からOさんのお世話になっていた。

そのオットは,先月病気で亡くなった。体調が悪くて外出がままならなくなった上,薬の副作用による脱毛が始まる前に坊主頭に剃り上げてたので,発病以来,美容院へ行かないきりになっていた。

私は変わらず美容院へ通い続けた。Oさんにはオットが病気であることや副作用で脱毛し始めたことは告げていた。Oさんは察しよくそれ以上のことは訊かなかった。

先月,私が美容院を予約していた日の前日に,オットの葬儀があったのだが、準備の慌ただしさですっかり忘れていて、ドタキャンしてしまった。

葬儀の後片づけがようやく落ち着き,髪がまとまらなくなったのでカットへ行った。

その日はOさんが不在だったため,初めてKさんという別の美容師さんに担当してもらった。いつもならば敢えてOさんがいない日にカットはしない。延期してでもOさんにカットしてもらう。しかし長年オットも担当していたOさんに彼の逝去を伝えることへのためらいがあり,Kさんにお願いしたのだ。

Kさんもベテランだが,他の美容師が担当する客をカットするのは気を遣うらしい。ヘアスタイルや髪質を細かく確認しながらカットを進めてくれた。

ふと,「冴子さん,会員番号が若い番号ですね。この美容院長いですね。」と言われた。

そうだ。この美容院とは,結婚前から通っているのだから。結婚を決めてすぐに今の家を購入し,夫が先に住み始め,そこへ私が入り浸りになったころからの付き合いだ。

家に一番近くて落ち着きそうだったので通い始め,居心地がよくて続いていたのだ。

Oさん相手によくオットの話をしたな。通い始めた頃はしょうもないノロケ話をしていただろうに,よくも聞いてくれたものだ。

あの頃,私は彼との新しい生活や,初めて住む街へのときめきで満ちていた。

そして少々ワケありで一緒になったので,彼のことを気兼ねなく話せる数少ない相手が,月に1度会う美容師のOさんだったのだ。

あの頃。

白いケープを掛けられ,カット台に座る私の後ろ姿が目に浮かんだ。

肩より長い髪を切られながら,笑顔で話していただろう。

涙があふれて流れた。

どうしてこんなところで私は泣いているんだ?

ふだんはオットのことを話しても悲しい感情にはならないのに。

美容院で過ごすときの私は,妻でも母でも勤め人でもない,素の「冴子」だからだろうか。無防備な私はこんな些細なことで涙を流すのか。

いつもと変わらぬ明るい声で会話しながら,いく筋かの涙が私の頬をつたった。

誰かが見たら,変に思うだろうな。

どうしたのかと尋ねられたら髪の毛が目に入ったと言おうと考えながら,指先で涙を拭った。


2か月ぶりに切った髪は,軽やかにあごの線で切りそろえられた。

お会計を済ませ,Kさんが店外に見送ってくれたとき,オットのことを伝えた。次のお客さんが待っているし,もっと話したら涙声になりそうだったから,かろうじて「Oさんによろしくお伝えください」と言い,雨が降る街へ飛び出した。


Oさんは,オットの死を知ってどう思うのだろうか。

平らな後頭部の形や柔らかな髪質の感触が,その手に蘇るのだろうか。


春先に芽吹いた草を思わせる髪を,そういえば私も半年もの間,撫でることなく別れてしまっていた。



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