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私の叔父の話



一昨日、柴又に住む母方の叔父が亡くなった。

この叔父についてはこれまでも何度か触れてきたけれど、あまりにも書くことが多すぎて、今までその全体像と向き合うことができなかった。

でも、一言でいうと、今の私が生きていられるのはこの叔父のおかげである。

なにぶん亡くなったばかりなので、今は弔辞代わりに思いつくまま、覚えていることを書こうと思う。

・俺ぁアメリカは嫌ぇだ

叔父は昭和4年、東京の向島で生まれた。
家族構成が複雑なので詳細は省略するが、叔父は両親を早くに亡くし、若くして年の離れた異母弟妹(私の母ともうひとりの叔父)を男手ひとりで育てる羽目になる。

叔父から聞いた東京大空襲当日の話は壮絶の一語である。

昭和20年3月10日、当時16歳だった叔父は国鉄(今のJR)の機関助手として田端駅構内で働いていた。
頭上から焼夷弾がばらばらと降り注ぎ、叔父は急いで先輩と一緒に貨車の下へ逃げた。そのまま翌朝になるのを待ち、電車がとまっているので田端から東向島にある自宅まで明治通りを歩き続けたという。

道中、東京の街は丸焼けで、通り沿いには死んだ人が山積みになっていた。隅田公園、上野駅に公園口、どこも焼死体だらけだった。今はとバス乗り場のあるあたりもひどいことになっていたそうだ。

白鬚橋にはたくさんの死んだ人が浮いていた。川面には水死体が浮かび、何ヶ月も放置されたまま行ったり来たりしていたという。

自宅に着いてみると、はるか遠くから自分の家が見えた。延焼を防ぐために隣の家までが打ち壊されていたせいだが、不思議なことに叔父の家の番になった途端、急に風向きが変わり、その一角だけが嘘のように焼け残っていたという。

その壮絶な経験を、叔父はあるとき、私に向かって一言で片付けた。

「戦争、あれはダメだなあ。俺ぁ、アメリカは嫌ぇだ」

・仏さまのような人

叔父は若い頃から博愛主義を絵に描いたような人で、比喩でなく、自分の持っているものをなんでも他人に分け与えてしまう人だった。

母の話によれば、叔父と一緒に暮らしていた頃、家には常に誰か知らない人が転がり込んでいたという。
困っている人を見るとすぐ叔父が連れてきてしまうので、母が貧乏長屋に帰ると玄関にはいつも知らない人の靴が置かれていたそうだ。
これは叔父が結婚してからも変わらず、叔父の娘である従姉妹もまた、家に帰るといつも玄関に知らない人の靴があったと言っていた。

その居候のひとりに、歳の離れた叔父の姉の娘がいた。
叔父の姉は若くして死に、里親や親戚をたらい回しにされたその娘は、叔父の家に転がり込んだ時には手のつけられない不良になっていた。

ことに歳の近い母とは折り合いが悪く、素行も悪かったので周り中から嫌われうとんじられていたが、叔父だけは彼女を平等に扱い、少ない食料から自分の分を彼女に分け与えていた。
そして彼女が家を出る時も、結構な額のお金を餞別に彼女に持たせていたそうだ。

近年、その彼女の娘さんが叔父の家を訪ねてきた。
看護師だというその人は、まとまった額のお金を従姉妹に渡し、今はもう動けないという母親からの伝言を伝えた。

「叔父さんだけが、あの頃の私を対等に扱ってくれた。このお金は昔、私が叔父さんからお餞別にもらったものです。今度はこのお金を叔父さんのために役立ててください」

こんな人が、叔父の周りには佃煮にするほどゴロゴロいるのである。
しかも、叔父はそれを決してふいちょうする人ではなかった。いつも飄々と銀歯を見せて笑い、寿司屋の湯呑みで焼酎のお湯割りを旨そうに飲んでいるだけだったのだ。


・そうか、じゃあ仕方ねえなァ

行き倒れたホームレスを見つけてはお茶を与えて警察を呼び、犬でも猫でも可哀想だとすぐ拾ってきてしまう叔父はとても頭がよく、東大に行けるくらいの優秀な頭脳を持っていた。

実際、本人も進学したかったらしいが、環境がそれを許さなかった。もしかしたらそのせいだろう、国鉄を退職した後、叔父が再就職先に選んだのは東大のボイラー室だった。

このボイラー室に勤めていた頃、叔父が脚を骨折した。
私は東大病院に入院した叔父を見舞いに行った。

この頃の私は100人中100人が反対するような男性と付き合っていて、孤立無援の中、無理して毎日を生きているような感じだった。
あれは今でも忘れない、病室でふとその話を漏らしてしまった私に、叔父はこう訊ねてきたのだ。

「おまえは、その人が好きなのか?」
「うん、好きだよ」

叔父はしばらくあの色素の薄い目で私をジッと見ていたが、やがて、明日は雨になりそうだな、くらいのテンションでポツリと言った。

「そうか。じゃあ仕方ねえなァ」

北風と太陽とは本当によく言ったもので、その瞬間、あれほど頑なだった私の心が決壊した。叔父にこんな風に丸ごとアッサリ肯定されてしまったことで、逆に心が「あ、もういいやあの男は」と納得してしまったのである。

脚を引きずりエレベーターまでヒョコヒョコ私を見送りに出てきた叔父に、泣いているところを絶対に見られないよう我慢しながら、あー、こんな人に心配かけちゃいけない、心からそう思った。

こんな風に私だけでなく、叔父のおかげで人生救われた人がこの世には大勢いる。 

それを誰にも何にも言わず、淡々と人や犬や猫に功徳を施し続けた一生だった。

あの人、いったい何だったんだろう。

博愛主義者だけれどこか冷たく、
それでも善行を死ぬほど施し、
私と犬の名前を平気で間違え、
縁の下の鈴虫の大合唱をこよなく愛する。

あんな人は見たことがない。
多分、この先も一生見ることはないだろうと思います。






























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