「どうせ無理」を覆せ! 元プロの教諭・伊達昌司先生が伝えたい思い 佐伯要著 短編「やれば、できるよ―元プロ野球選手 都立江戸川・伊達昌司コーチの人生哲学」
元プロが高校野球の監督になるには?
現在では、プロ出身の高校野球の監督は珍しくなくなりました。
プロ出身者が高校野球の指導者になる条件をご存知でしょうか?
2013年に制度が変更になり、学生野球資格回復制度の研修会を受講すれば必要な資格を回復することができるようになりました。
それまでは、どうだったのか?
1997年以降は教諭として通算2年以上の在職が条件でした。
この条件が、2011年に「常勤の臨時講師としての期間も含めて2年」に緩和されました。
新条件の適用第1号が、伊達昌司先生。2011年4月から東京都立江戸川高校で指導者になりました。
伊達先生は投手で、法政大、プリンスホテルを経て、2001年に阪神タイガースに入団。その後、北海道日本ハム、巨人でプレーしました。
2006年限りで現役を引退すると、2007年春から法大に通い直し、2年間で中学の「社会」と高校の「公民」の教員免許を取得。
2009年は神奈川県立鶴見養護学校の岸根分校に勤務されました。
この年に法大の通信課程で高校の「地理・歴史」の免許も取得。
東京都の教員採用試験を2度目の受験で見事に合格して、2010年4月に都立江戸川に赴任したーーというのが、伊達先生の経歴です。
本当にプロ野球選手だったんですか?
この作品は、僕にとって初めての短編ノンフィクションです。
まだライターになる前に、ある元プロボクサーを描いた「約束のリング」という短編を書いて、雑誌『Number』のノンフィクション新人賞に応募したーーという経験はありましたが、本として出版された作品としては、これが初めて。
なので、とても思い出に残っています。
伊達先生を取材する機会をいただいたのが、2012年8月。
最初の印象は、「プロ出身者っぽくない人だな」でした。
初めてお会いしたとき、伊達先生の服装は白いシャツ、黒いスラックスでした。ユニフォームでもジャージでもなかった。
その服装だけではなく、伊達先生からは、いい意味で「プロのプライド」を感じなかった。「何か」が違ったんです。
都立江戸川で監督を務めていた芝浩晃先生に「伊達先生って、どんな人ですか?」と聞くと、こんなふうに答えてくださいました。
「阪神のユニフォームを着て甲子園のマウンドに立っていた人なのに、『一から勉強です』と言っておられた。あまりの謙虚さに、『本当にプロ野球選手だったんですか?』って感じですよ」
「監督になろう」ではなく「教師になろう」
取材を進めていくと、その「何か」が次第に明らかになりました。
伊達さんは「野球の指導者」である前に、「先生」だったんです。
当時、プロ出身者が高校野球の指導者になる場合は、「監督になるために、教師になる」が多かったと思います。
伊達先生は、「教師になろう」という気持ちが先だったそうです。
現役を引退したとき、妻の靖子さんから「教師に向いてるんじゃない?」と勧められたそうです。
靖子さんの叔父さんが神奈川の県立高校の教師で、その教師像が伊達さんと重なった、と。
伊達さんは人前で話すのが苦手だったそうですが、「教師なら自分の経験が生かせるかもしれない」と、決意しました。
そこからは、努力、努力、努力です。
「教師はパソコンを使うことが多い」と聞き、まずパソコン教室に通った。
キーボードで「あ」の文字を打つところからのスタートだったけど、根気よく通って使いこなせるようになった。
伊達先生は「『やればできるじゃん』と自信がついた」と言います。
法大で教職課程を受講。教室の一番前の席で授業を受けた。
教員採用試験に向けて、参考書を丸暗記するくらい、勉強した。
養護学校では、自分の考えを伝えるのにも苦労しながら、工夫する毎日だった。
そんな日々を経て、2度目の教員採用試験で合格。採用通知を手にしました。
そんな伊達さんの姿を見ていた靖子さんは、こう思ったそうです。
「人って何歳からでも、やればできる。頑張ったら報われるんだ」
身をもって示す「やれば、できる」
伊達先生の心のなかには、法政二高時代の劣等感が消えずにあります。
3年夏は、背番号「10」。登板機会がないまま、敗退しました。
そのことを見返してやろうとやってきて、大学で巻き返し、プロで6年間を過ごした。
6年間のプロ生活では、自分より能力が高い人がたくさんいたけど、いろんな工夫をした。そこで感じたのも、「やれば、できる」だったそうです。
教師になると決めたときも、「どうせ無理だ」という声を覆そうと努力したら、なれた。
伊達先生は「生徒には『やれば、できる』とわかってほしい」と仰っていました。
取材した当時、1人の投手が伊達先生の指導で才能を開花させました。
その投手は新チームでベンチ入りがあやうい状況でした。
伊達先生は、彼の体の使い方を見て、腕を下げることを提案。サイドスローに転向すると、背番号「10」を手にしました。
秋の大会では、その投手がある試合で3回から救援で登板。無失点で抑えて、勝ち投手になりました。
その試合後、伊達先生は「心機一転して思い切りの良さが出た、よく投げてくれた」と言いました。
そのときに見せた笑顔が、とてもうれしそうだったのを覚えています。
「やれば、できる」
言うのは簡単です。でも、伊達先生の場合は、ご自身の経験からにじみ出ている。
だからこそ、伝わるんじゃないかーー。
僕はそう感じて、この作品のタイトルを「やれば、できるよ」にしました。
できないのは、「どうせ無理だ」と思って、あきらめてしまうから。
やれば、できる。
野球はもちろん、人生に通じる言葉だと思いませんか?
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