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カフカの『Der Prozeß』を読む その01

とても個人的なことになるのだけれど、留置所にいるとき、どうしても読み直したくなって、3冊の文庫を家族に差し入れしてもらった。逮捕されること自体が、家族にこの上ない迷惑をかけたのに、厚顔無恥も甚だしい、と当時も今も思っている。でも、それでもその機会を利用して、読みたくて読みたくてしょうがなかった。

その3冊とは、カミュの『異邦人』、ドストエフスキーの『罪と罰』、そしてカフカの『訴訟(審判)』である。いずれも、犯罪や「収監」を扱った小説であることは、いまさら言うまでもないだろう。自らも逮捕された状況にあって、どんな風に読めるのか、どんな風に読み方が変わるのか、確かめてみたくなったのだ。

結論を先取りするなら、読み方はかなり変わった。いずれも何度か読み返した本だったのに、そういう状況だからこそ気づける点に多々気づいた。以前、ベストセラーになった『テヘランでロリータを読む』を引き合いに出すのは不遜きわまりないが、その時々の状況が読みにいかに影響するか、その度合いをとてもとても強く実感した。

なかでも震えるほど発見の多かったのが、『訴訟(審判)』だった。主人公ヨーゼフ・Kが「逮捕」されることから始まる物語は、それまで読み飛ばしていた(としか思われない)細かい点に至るまで、自分の置かれた立場や、そうなることで立ち現れた思考に、とても近くて親しい、いな、思考そのものを促す刺激を与えてくれた。

そして、その思考は、留置所を出た後も、ぼくを強く刺激し続けている。畢竟、留置所を出たとはいえ(出してもらえたとはいえ)、ぼくの逮捕が示談で終わったとはいえ、ぼくの罪は消えない。留置所で感じ、実際にそうなった人生の転換も、生きている間は続く。けれど、いや、だからこそ、ぼくはずっと考え続ける、考え続けなければならない。それはとどのつまり、その契機を与えてくれた『訴訟(審判)』と真摯に向かい合うことを意味する。

ひとつの論考としてまとめるには、まだまだ色々と足りないところだらけだが、まずはテクストをきちんとたどるためにも、拙い脚注をつけておきたい。一つ断るとすれば、これは厳正な学問的行為ではなく、ぼくの恣意的な解釈に近い。だから、あくまで「論考」(論文ではない)の下準備にすぎない。では始めよう。テクストは無料で提供されているオンラインのものを用いる。逐語訳は、ぼくの拙訳である。

Jemand mußte Josef K. verleumdet haben, denn ohne daß er etwas Böses getan hätte, wurde er eines Morgens verhaftet. 
誰かがヨーゼフ・Kを誹謗中傷したのに違いなかった。というのも、何か悪いことをした訳でもないのに、ある朝彼は逮捕されたのだ。

有名な冒頭の部分、突然の逮捕で始まるショッキングな場面だが、日本語では伝わらないとても大事な含みを、原文のドイツ語は持っている。その最たる箇所は「何か悪いことをした訳でもないのに」と訳出した部分である。ここには、英語の文法でいうところの「仮定法」に似た構文が用いられていて、話者の(ここでは語り手の)判断の不確かさ、ないしは、判断の保留がなされている。

つまり、説明口調で訳すと、「Kは悪いことをしたかどうか、ぼく語り手は知らないけど、どうやらそう言っているらしい(どうやらそう考えているらしい)」ぐらいの意味になる。地の文に直接法が使われていることも、大きなコントラストとなっている(何か悪いことをした=不確か、逮捕された=確か)。

そもそも「誰かが悪い噂を吹聴した」くらいで「逮捕」されるのか、という疑問は当然生まれる。ここでは詳しく立ち入らないけれど、一つ暗示しておきたいのは、古今東西、風評が法を発動させ、裁判を開催させたという事実があるという点だ。「その事実がどうしてここで?」「20世紀の小説に?」という疑問には、改めて答えてみたいと思う。

なお、原文に関してさらに一言添えるならば、「誰かが…誹謗中傷した」と訳した箇所は、「Josef K. mußte verleumdet werden(ヨーゼフ・K.は誹謗中傷されたはずだ)」と書くことは可能である。だが、そうなると、同じ文章の最後あたりの「wurde」と用いる語(「werden」)が重なる。重複を避けたとも考えられる。他方で、全体を次のように書くことも可能だ。

Josef K. wurde eines Morgens verhaftet, obwohl er nichts Böses getan hat. Jemand mußte ihm verleumdet haben.

ヨーゼフ・Kは何も悪いことはしなかったのに、ある朝逮捕された。誰かが彼を誹謗中傷したに違いなかった。

あくまで原文ありきの比較になるが、文にみなぎる緊張感がかなり違う印象を受けないだろうか。また、これだと「彼は悪いことをしていない」が確かな情報として語られてしまう。原文では冤罪の可能性がきわめて怪しいのに、こちらだと冤罪が確定してしまう。いや、冤罪の可能性を怪しませる点を強調するならば、原文であって然るべきなのだ。

Die Köchin der Frau Grubach, seiner Zimmervermieterin, die ihm jeden
Tag gegen acht Uhr früh das Frühstück brachte, kam diesmal nicht. Das war noch niemals geschehen. K. wartete noch ein Weilchen, sah von seinem Kopfkissen aus die alte Frau, die ihm gegenüber wohnte und die ihn mit einer an ihr ganz ungewöhnlichen Neugierde beobachtete, dann aber, gleichzeitig befremdet und hungrig, läutete er. 
彼の家主であるグルーバッハ夫人の料理女は、毎日朝8時に朝食を持ってくるのに、今回は来なかった。これは今まで一度もなかったことだ。Kはもうしばらく待った。枕から目をあげると、向かいに住んでいる老婆が、似つかわしくない好奇心を込めて自分の方を見ていた。ともかく、居心地が悪いのも、腹が減ったこともあり、彼はベルを鳴らした。

「逮捕」という非日常を、日常ではない事態が生じている日常で埋めていく、のは定石だろう。普段なら起きないことが、主人公の周りで生じ始める。料理女が来ないこと、向かいの(おそらくアパートの)老婆が「普段の彼女にならありえない好奇心」でこちらを「観察」している。冒頭でなされた事態を、少しずつ日常ではない日常で具体的に説明していく、いや、肉づけしていくのだ。

細かい補足をするなら、日本語訳で表しにくい「日常からのズレ」が原文には織り込まれている。例えば、「似つかわしくない」ととりあえず訳した「ungewöhnlich」という語は、「Gewöhnlich」や「Üblich」といった語を「超える」言葉であり、文字通り「普通ではない、いつもと同じではない」ことを表す。

また、「居心地が悪く」という訳語を当てた「befremdet」は、いま述べた語「ungewöhnlich」と同義的グループの語彙に属し、かつてはフロイトも論じた「fremd」を語根に含んでいる。個人的には「居心地が悪い」とか、「バツが悪い」などに当たると思うが、原田義人さんは「いぶかしい」と訳しておられる。オンラインのドイツ語辞書によれば、「人を奇妙な心地にさせる」「不意打ちに驚かせる」などと語釈されている。

さて、これからどうなるか、Kの周囲で起きる事態をゆっくり追いかけて行くことにしよう。

*タイトルページの写真は、デジタルアーカイブに依拠しています。

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