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ヨガ哲学:自分とは?

最近はまた少しずつ、身体のことに加えてヨガ哲学も勉強しています。

私の哲学の先生は、「哲学の勉強は、本を読んで一人でするものではなく、師について習うもの」と言っていました。
これはホントにその通りだな、と思って、ずっと実践しています。

一人で本を読むより、何倍もの叡智が腹に落とせる感覚がするのですよね。

今日は、備忘録も兼ねて、ヨガ哲学の根幹、そして二つの「自分とは?」に対する答えについて書いていきます。

YOGAとは?

ヨガ=yujuという言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。
yujuは「繋ぐ」などの意味があります。

心と身体を繋ぐ
自分自身と繋がる
他の人と繋がる
全てと繋がる

そうやって繋がることで「閉ざしているものを開いていくもの」というふうにも言われたりします。
そうやって繋がることの最終目標はモークシャ「最高の幸せ」に辿り着くこと。

その「繋ぐ」ステップの1番目として、心と身体を繋ぐ、要するに心身一如を目指すのです。

ただ、この心身一如、そう簡単ではありません。
直接的に心(潜在意識)をコントロールすることは不可能です。
なので、ヨガにはわかりやすく段階があります。

それが八支則(アシュタンガヨーガ)です。

八支則では、まずヤマ・ニヤマで行動に対しての指針を示します。
そしてアーサナで身体調整をし、プラーナーヤーマで呼吸を整えます。
プラティヤハーラで感覚を制御し、ダーラナ・ディヤーナ・サマディで瞑想を深めていき、自分の真我・心とひとつになっていきます。

このように、段階を経て整えていくことで心身一如を達成していくのです。

ヨガ哲学の根幹

では、ヨガ哲学の根幹メインテーマは何でしょう?

繋がりを目指していくヨガ。
その道はいつも順調でしょうか?決してそうではないですね。

その道に立ちはだかるものが、きっと出てきます。
それをヨガではクレーシャ(煩悩)と呼びます。

クレーシャ=繋がりを阻むもの
そのクレーシャが、あらゆる煩いや悩みの元凶だということになります。

そして、このクレーシャというものは、
「皮膚という境界線で自分とそれ以外の世界を分離して捉えている」という無知アヴィディヤー(誤解)が産んだもの。

要は、この無知が苦の元凶の元凶になっているというのです。

ヨガ哲学では、この無知を解消して、苦の大元を取り除く、それが重要なテーマとしてあります。

Q.自分とは何か?そして、苦を消すために必要なことは?

砕けた表現をしてしまうと、勘違いをやめて幸せになろうよ〜という感じ?
「自分」というものについての捉え方を変えれば幸せになれるよ、とも言えますかね🤔

ここで、「自分というものについての捉え方」について、2つの論が出てきます。
最終的な目的は「苦が消えて幸せになる」なのですが、その方法が違うと言ってもいいかな?

この捉え方によって大きく2種類のヨガ哲学があると分類されています。

まずひとつめ。

A.自分も含め全ては、ブラフマンの一部。皮膚の内側も外側も全て自分である。
必要なのは「万物との合一」

これがヴェーダーンタ哲学で、一元論の哲学です。

そしてふたつめ。

A.プルシャ(純粋意識、魂、真我)のみが自分である。皮膚の内側も外側も全て自分ではない。
必要なのは「心の働きの死滅」

これがサーンキャ哲学と呼ばれる、二元論の哲学です。

同じヨガ哲学なのに結構違いますよね🤭

異なるもの、だけど最終的には同じ領域に行き着く…かも?

この二つのヨガ哲学はどちらが正しい間違いはないです。
どちらを自分自身が採用したいかだけ。

ただ、どちらも結局は皮膚という境界線をなくす、ということは同じなので最終的にはごっちゃになることも多いです😅

そして、ヨガとしてどちらの哲学においても重要なのは、とにかく実践すること。
それぞれの哲学において実践することで推奨されていることは多少違いますが、とにかく実践あるのみ。

ヨガにおいての実践とは、哲学を学んだり、瞑想をしたり、マントラを唱えたり、ハタヨガの行法をしたり。

自分で体験しないとなにも変わらないのです。
体験することで、その先に悟り・解脱の道が見えます。

解脱とは、「苦しみから抜ける」ということ。

私はまだまだ道のりは遠いですが😅
一緒に歩み続けていきましょう🤍


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