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「障がい」に救われてきた私がいた
小学生時代、どこか「普通」になじめなかった。
盛り上がるバラエティやアイドル、クラスの子のランキング、コソコソ話す陰口、友達と一緒でなければ行けないトイレ、分かるのに挙げない手。
どれもよく分からなかった。
ありがたいことに勉強も運動も人並かそれよりちょっとだけ良くできた。
だからあからさまに距離をとることもなく、でも密接に入りすぎない一線を引いていても、誰とでも話ができて、何となくいじめられない上手な世渡りができたのだと思う。
休み時間は本を読むか特別支援教室に遊びに行っていた。
特別支援教室には知的障害をもつ同い年の男の子がいて、私は毎日のように二人で鬼ごっこをしていた。小さな教室のトランポリンと机の周りをぐるぐる回る。いつも私は鬼で彼を追いかける。「まて~」と言って小走りに追いかけて、つかまえて、途中でCDから好きな曲が流れると止まって一緒に聞いて歌って、また走る。ただそれだけで30分、毎日、毎日。その時間がたまらなく好きで安心した。
言葉は話せず「あー」「うー」など発するのみ、勉強は6年生の時にひらがなの練習と足し算の練習をする彼が私の人生初めての「尊敬する人」だった。
彼はいつも自分に正直だった。
嬉しいときは満面の笑顔と鼻歌を歌って声をかけてくる、嫌な時は体全部を使って拒否して動かない。私も一緒にいるときだけはなるべく同じように表現して伝えるようにしていた。
彼のそばにいるときだけは自分も「ありのまま」という状態でいるような気がした。
支援学級に遊びに行き、交流授業でも積極的に側にいる私をみんなは「優しい」「えらい」「いい子」だと評価した。
でも私は自分のために彼と遊んでいた。
自分を「普通」の中に入れられた「違う」何かに感じていたからこそ、「違う」と区切られた場所に「違ってもいいのだ」と安心を得ようとしていたのかもしれない。
アンバランスな気持ちの悪い「いいこ」が出来上がった。
居心地がいい純粋な気持ちと、自分を正当化する不純な気持ち。
少しずつ本音と建前が上手になることに気持ち悪さを感じる。
そんなことを感じることさえ幼く「若い」と切り捨てられるのかもしれない。
「いいこ」のレッテルでまた一つ汚くなった。
「福祉」「支援」「障がい」そんな言葉を話すたびに一つずつまた自分が「いいこ」のレッテルに押しつぶされる感覚がある。
なんと表現すればいいんだろう。
私は違う、あなたも違う、でもそれもおもしろいじゃない。私は私を好きになってもいいじゃない。あなただってそうじゃない。
ただそれだけなのに。
「障害福祉」も「特別支援」も、ただ自分のエゴと救済なんだ。
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