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缶ポカリと孤独な生活

 失ってから気づく大切というのがある。私は失ってからでないと、大切なことに気づくことができない大馬鹿者なのだが、先日も同様の体験をした。
 両親が離婚し実家が引っ越すことになった。先日、引越しの手伝いをするために実家に帰った。あれだけ物に溢れていた、子どもの頃から帰っていたあの家は生活感が全くない、抜け殻のような様相を呈していた。生活に必要なものは段ボールに詰め込まれ、次の場所へと運ばれるのを待っている。私は車を借りてえっさえっさと母が住む新居へ荷物を運んだ。数えてみると実家と新居を八往復していた。

 最初に離婚の話を聞いたとき私は内心ホッとした。父も母も私が小さい頃から仲が悪く険悪な雰囲気の中育ってきたので、やっとあの空気から私も、また両親も解放されるのだと思った。それから専業主婦である母の生活をどうするのかとか、私は地元に戻らねばならないのかとか頭が痛くなる話題が出てきて、ホッとしてばかりもいられなかった。将来のことは後々考えるとして、とりあえず有給をとって地元に戻り私にできることをしようと思った。

 私が通っていた小学校と中学校は建て直され子綺麗な学校になった。最寄駅も建て直されたし、思い入れのある商業施設もなくなった。知ってる店が潰れて知らない店ができた。これはすべて私が地元を離れていた間に起きた出来事だった。たまに帰省して地元を歩くと「なんだここは?」と疑問を抱えることになる。私はもう地元を「地元」と思えない。それに加えて両親の離婚。地元を喪失したような気分であり、また帰りたいと思えなくなってしまった。

 なんだか暗い話題になってしまったけれど「缶ポカリ」の話である。
 私の実家の近くに缶ポカリが売っている自動販売機が二件もあった。そのうちの一件に先日行ってきた。その自動販売機は真っ暗な住宅街を煌々と照らす。飲み物のラインナップも以前と変わってないように思える。
 自動販売機がなくなる瞬間、というものを体験したことがない。思い入れのある自動販売機なんて今までなかったから、どことなく現れてどことなく消える、そういった存在だった。でも今は違う。この自動販売機には末長くこの真っ暗な住宅街で生き延びてほしいと思う。変わりゆく街の中でひっそりと佇むように。

 実家が引っ越したため私は地元に用がなくなってしまった。別に大きい街でもないから本当にもう来ることはないかもしれない。この自動販売機にまた会えるかどうかはわからない。

 引越しの手伝いがひと段落し、帰りの飛行機が予定されてる前日に友人と飲みに出かけた。知っている街なのに知らない場所ばかりで飲んだからか、将来の不安からか、わからないけどいつもより飲んでしまい帰りは朝だった。家に帰ると空っぽの冷蔵庫の中に先日買っていた缶ポカリがあった。キンキンに冷えていた。それを飲んでぐっすりと眠った。昼に起きてからも二日酔いで頭が痛かった。缶ポカリはまだ半分ほど残っていたので、また飲んだ。

 失ってから気づく大切なものというものがある。失ってからから気づくなんて大馬鹿者だ、と私は思う。けれども私が抱えてる大切ものなんてどうせ、いずれ失う。そう達観できたら、物事に執着せずに生きられたらどんなにいいだろう。

 こうしている今も自動販売機は動いている。街のどこかで缶ポカリは青く光っている。それ以上のことでもそれ以外のことでもない。ただ、缶ポカリはどこかにあるのだ。

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