自由の恐怖
つい先日、お世話になった16bitに顔を出してきた。
とうとう 終わっちまった。
わかっていたからしょうがない。
長く、お世話になった。
16bitにしかほぼほぼ出演していなかったから当然ライブのスケジュールは白紙になった。当たり前だ。
(ひょんなことから10/7に元町でのライブが決まった。ぜひに。)
予定が白紙。
よく考えると子供ころはそうだった。特に何も決まっておらず、予定というものは周りの大人が決めていた。
大人になると、自分の予定は自分で決めていい。最高じゃないか。こうなるのを俺は子供ころから待っていた。
しかし、自由に決めていいからこそ、そこには己との戦いがある。
人は何をやって生きてもいいのです。どんな風に時間を過ごしてもいいのです。言い換えれば、何もしなくてもいいのです。
ある程度サイクルが決まった環境に身を置けば、流れができてくる。
その流れに身を任せ、考えることも流れに乗せていく。選択が制限される分、人は楽になる。愚痴を言いながらでもやれてしまう。
この「流れ」というもの。
いつか終わる。いつか無くなる。
流れの中にいて、永遠に感じている人も人生は有限であるのと同じでいつか終わるのです。
終わった時に、きっと本当の強さが求められるんだと思う。
自分が自分であること、裸のまま外にほっぽり出された時に自分の足や腕は
自分の思い通りに動くのか。服を着ていたから自分には足や腕があることを認識していたのか。
裸になった時に本当の強さがわかるような気がする。
この話、ピンとくる人もいれば、鼻で笑う人もいると思う。物心ついた時から裸で生きている人もいるから。
俺は、幸せなことに流れの中で生きていた。
だから自由を求めていた。本当の自由とは何かもわからず憧れをもっていた。読んでくれている人を信じて臭い言葉を躊躇なくつかう。
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