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小説家になるには小説を読みなさい……ですか?

『公募ガイド』などを読んでいますと、作家や編集者がよく「小説家になるには小説を沢山読むべし!」というアドバイスされます。確かに、その通りなのですが、しかし、釈然としないところもあるのが本当のところです。

私は小説はそれなりに読んでいますが、最初のページを読むだけでもそっ閉じするようなものが結構あります。それはカクヨムですとか小説家になろうで発表されているものだけでなく、実際にプロの作家が書くものでさえそうです。

今年、日本の小説で最後まで読んだのは、宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』と遠野遥さんの『教育』、あとは太宰治賞を受賞した山家望さんの『birth』の3作だけです。それも面白くはなかったですね。面白くなかったというか、自分の考えに合っていなかったといったほうがよいかもしれません。

『推し、燃ゆ』はテーマとしては10年前に書かれていてもおかしくないストーリーですし、哲学的な考察もありません。ただ、テーマに対する真摯な姿勢がいいですし、いい意味で欠点が見えている(つまり、よりよくするために工夫をしたけれど効果的でなかった)ところが芥川賞受賞につながったのかなと思います。欠点がないけどのっぺらぼうみたいな作品が選ばれるよりは、はるかに正しい。

『教育』はいろいろと意識的でない欠陥が見えていて、いまいち好きになれませんでした。小説の企画段階で詰められていないものが多すぎるんです。なんで超能力者育成の学校があるのか、そんな学校に生徒がどうして志願したのか。彼ら彼女らはエリートなのか落ちこぼれなのか。書かれていないことがいろいろとあるんですね。読者に疑問という逃げ道を与えすぎているんです。物語から逃がさない工夫がない小説を評価できないですね。これをほめているひとたちの文章にもいまいち説得力がありません。結局、小説家の怠慢が読者の希望的観測に近い感想を生み出しているんです。不健全な創作と読書体験だなと思いますね。

山家望さんの『birth』は小説としては淡白すぎるんですよね。拾った他人の母子手帳を渡すというだけの話なんです。『推し、燃ゆ』は中途半端に終わった小説だけにこれからの続きも期待できるのですが、この作品はこれで完結してしまった感じがします。ただ、一人称小説としてはとても好感が持てました。主人公の意識によって、半ば自分勝手に小説が進んでいく。一人称小説は「私」という人格を持ったひとが主人公だから当然といえば当然なのですが、意外ときちんと一人称小説が書けるひとは少ないんです。三人称の固有名詞を「私」に置き換えただけの小説がなんと多いことか! まあ、まったく効果的でないいきなりの回想はご愛敬ですが。

読書感想をだらだらと書いちゃいましたけれども、結論を簡潔に言います。
読書をしても小説を書く「足し」にはなりません。
面白いから読む、ある意味で教養になるから読むというのが正しい読み方で、小説家になるための実学的な位置づけで読むにはいまいちだと考えています。

ただ、書き手である私、旗屋菊之助(注)の元型を探し求めるという目的で読書をすることは大切です

先日、応募したくてもできなかったとある文学賞の質問に、「好きな小説は何ですか?」という質問がありました。私は何も思い浮かばなかったのですが答えないといけないので、取り急ぎ、イギリス連邦の文学賞であるブッカー賞受賞作家の小説を挙げました。

それで初めて気づいたんです。私がどんな小説を書きたいのかが。私が好きな作家に限らず、歴代のブッカー賞受賞作には以下の特徴があります。

①文学とエンターテインメントの境目がない
②地の文が長いため、長編になりがち(演劇や映画の影響?)
③哲学的に考えさせられる

私自身、上記の特徴を持った小説が書きたいと思っています。

日本だとどうしても文学とエンタメは別物と捉えられます。なかには文学っぽいものを書いているエンタメ作家もいますが、人物造形は単純ですし、描かれる社会は新聞の社会面の引き写しなんですよね。「事実は小説よりも奇なり」とはいいますが、だからといって、事実をトレーシングペーパーでなぞったみたいな作品は物足りないと個人的には思います。ただ、日本だとそれがウケるというのも知っています。みんな、「あるある!」て言いたいんですよね。

イギリスの小説は地の文がかなり長いですが、文章のコンティニュイティがあるのであまり冗漫とは思わないですね。映画のように間を大事にしている感じがします。一方、日本の小説は短いショットの積み重ねという感じがします。アニメやテレビドラマ、テレビCMを見ている感じですね。画面の切り替わりが早い。画面の切り替わりは早いんですが、話はそんなに切り替わっていないという。これはこれでありかなと思いますが。

哲学的論考はあってもなくてもいいかなとは思います。でも、生きづらさをテーマにするなら楽観的でありすぎてはいけないような気がしますね。Tears For Fears じゃないですが、"Everybody Loves a Happy Ending" と皮肉りたくなります。なんか、自分までなんかイギリス人みたくなってしまった気がしました。

話が逸れに逸れましたが、文学賞に落ち続けてモチベーションが落ちているとき、自分がどんな小説を書きたいのかを見つめ直すきっかけとして小説を読むのはいい方法だと思います。まあ、こう書いたところで、私は日本人に受けない小説を書いているという実感が湧いてきましたけれども。

注:私の某文学賞向けの筆名です。江戸時代のひとみたいな名前ですね。

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