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2023年展覧会について振り返ります

来年のことを言うと鬼が笑うといいますが、いまさら去年のことを振り返ると鬼はどうするのでしょうか? 鬼はこんなところをご覧にならないと思うので、2023年の展覧会を振り返ってみます。

私は2023年に58本の展覧会を観に行きました。そのうちのちょうど半分の29本が東京開催分で、関西での開催分は22本でした。現代美術(デザイン含む)の分野で、東京単独開催の優れた展覧会が多かったという印象です。

主なものを列挙します。
【ブロックバスター】
 ・東京都現代美術館『クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ』
 ・東京都美術館『レオポルド美術館 エゴン・シーレ展』
 ・東京都美術館『マティス展』
【小規模の展示】
 ・東京都現代美術館『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ』
 ・東京都現代美術館『あ、共感とかじゃなくて。』
 ・東京シティビュー『ヘザウィック・スタジオ展:共感する建築』
 ・森美術館『私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために』
 ・国立新美術館『大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ』

現代美術以外では、町田市立国際版画美術館『楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師』が特に印象に残りました。

明治、文明開化の浮世絵師というイメージの強い楊洲周延ですが、実は佐幕派で、懐古主義的な作品を多く残していたことに驚きました。
もちろん、明治時代以降の浮世絵師らしく、細かな線描や繊細な色使いで芸術性を高めた作品ばかり。これが200点あまりもあったのですから、質・量ともに圧倒されました。

関西単独開催で最も特筆すべき展覧会は『大阪の日本画』でした。

明治時代に大阪で活躍した日本画や南画の画家たち、いわゆる大坂画壇の画家の作品を集めた展覧会です。

大坂画壇の展覧会は2022年度に京都国立近代美術館での『サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇』がありました。こちらも素晴らしい展覧会でしたが、学術研究的な部分があって分かりづらく、万人受けしない印象を受けました。その点、『大阪の日本画』は画家の作風や大坂画壇の特徴がはっきりと分かるかたちで展示されていました。

大坂画壇を魅力なものにさせていたのが「タニマチ」の存在です。商業で財をなした人々が画家に注文して、絵画を描かせていたのです。

ほかの画壇では公募展に入選するために描かれた作品や絵画団体の「イズム」を持った作品、自己の内面を追求した作品がほとんどを占めます。これらはもちろん、優れた絵画ではありますが、「なにか」が欠けています。
その「なにか」の存在に気づかせてくれるのが大坂画壇の作品です。

大坂画壇の作品は親密性や生活感が特徴となっています。地元大阪の名所や市井の人々を題材にした作品が多く、そのおおらかさも魅力です。作品を競ったり、誰かに主義主張を宣言したりしなくても「タニマチ」が買ってくれる。その安心感が大坂画壇を特別なものにしたのかもしれません。

ただ、関西単独では『大阪の日本画』以外に特筆すべき展覧会はありませんでした。
『京都画壇の青春』や『走泥社再考』など研究の質のよさを感じさせる展覧会や『幕末土佐の天才絵師 絵金』のような美術と地域との関係を考えさせてくれる展覧会はありました。
けれども、それ以外はイベント色が濃く、美術的な妙味に乏しい展覧会ばかりでした。

『決定版! 女性画家たちの大阪』については、『大阪の日本画』をパワーダウンしただけの内容になってしまったのが残念でした。

女性作家は結婚や出産といったライフイベントよって作風が変わることが多いのですが、そちらは見たくなかった側面でもありました。結婚、出産をして作品の質が上がったようには思えなかったのです。幸せになったから……というよりは、幸せになることでそれまで見えていたものが見えなくなったからかもしれません。

感じ取れることがあるものあったのですから、観る価値のある展覧会であることは間違いありません。

昨年の木イチゴ展覧会(一番ダメな展覧会)は『井田幸昌展』です。

お金配りで有名な前澤友作氏や俳優のレオナルド・ディカプリオ氏といった現代美術コレクターの間で非常に有名な画家の展覧会です。首都圏の方のなかには『クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ』で絵画が展示されていたのを記憶されている方がいらっしゃるかもしれません。いずれにせよ、お金持ちに人気のある画家の展覧会です。

お金持ちに人気があっても別にいいですし、さんま画廊で有名になった青山哲士氏(私は青山氏のことを「とにかく明るいバスキア」を呼んでいます)のような、失礼ながら「中身のない」画家がいることもアートのよさだと思います。やがて青山氏の作品に「中身」が見いだされ、現代美術になる可能性もあるかもしれません。美術は意外と部外者にやさしいのです。

ただ、本展で展観された井田幸昌(ここからは敬称略)の作品は、いずれも底が浅すぎる印象を持ちました。

具象的なイメージを抽象化させた作品は、フランシス・ベーコン以降、きわめてありふれたテーマになっています。五木田智央のように一部分だけにとどめるか、デ・クーニングのように原形をとどめないぐらいにぐちゃぐちゃにするか、という程度の違いです。井田幸昌は後者なのですが、問題はそこじゃないのです。

このような手法で何を表現したいのかが分からないのが問題なのです。五木田智央は一貫して顔をいじっているので、分かりやすい。デ・クーニングは女性をテーマにしているから、なんとなくなにがやりたいことが見えてくる。一方、井田幸昌の作品は「なにをもとにして、なにをいじったのか」が見えてこないんです。もちろん、一点一点なら見えます。でも、複数の作品を通して見えるものがないのです。これでは作家がやりたいことがひとつも見えてこないのは当然です。

井田幸昌はいろいろと語るタイプの作家なのですが、なにがやりたいのかはわかっていない。そんな気がします。

リンク先に書かれてあるステートメント(?)は「絵画」に対する宣言ではなくて、「絵画をすること」に対する宣言になっています。井田幸昌は絵が分かっていないのではなく、自分が絵で何をしたいのか分かっていないのです。ただ、絵で「なにか」を表現したい自分がいるだけなのです。だからこの文章を読んでも、作品を見た後もしくは作品を見る前に読んだとしても、作品理解につながることはありません。一期一会という名の偶然に身を任せているだけ。作品をじっくり鑑賞しても、ステートメントらしき文章を読んでもそんな印象を受けます。

分かりやすすぎても困惑するのがブロンズ彫刻です。

井田幸昌のブロンズ像はいずれも、「手でこねて作ったこと」がはっきりと分かる作品ばかりです。
ブロンズ像はまず粘土で原型を制作し、それを焼いたテラコッタをもとに鋳造をして、最後の仕上げを経て完成となります。なので、ブロンズ像は本来、粘土像といわれれば確かにそうです。
でも、そんな自明なことを芸術家が堂々と宣言されると、こちらとしては頭を抱えてしまいます。鑑賞者の思った通りに芸術家が作品を作ってしまったことを知るのは、つらいです。

他の絵画作品もレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』をパロディしたものや、現代の画家(ゲオルグ・バゼリッツやアンゼルム・キーファーか?)の手法を引用したものが多く、結局、井田幸昌本人がなにをしたいのかわからないまま、展覧会が終わってしまいました。

公式図録が14,300円もして、それを買った観客が「アートを買った、アートの理解者」という顔をしていたのも滑稽でした。数百円の紙袋もよく売れていました。あんな馬鹿でかい紙袋、どこで使うねん。そのことを知人に話そうとしたら、後ろで井田幸昌本人がサインをしていたのでひやりとしました。いろいろととんでもない展覧会、いや、美術関連イベントでした。

本題とすべき東京の展覧会のことをほとんど書かないまま、3000字オーバーになってしまったのでこれにて終了です……。あ、町田もいちおう東京です。

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