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『鴨川ランナー』読みました

第2回京都文学賞受賞作『鴨川ランナー』、いまさっき読了しました。原稿用紙100枚かそこいらの短編小説なので、一息で読めます。

コンセプトはアメリカ人の「きみ」が高校で日本語を習ってから、東京の大学で職を得るまでの期間を描いた半生記です。

いきなりこんなことを書くのは残念ですが、ストーリーは散漫としているので小説の体をなしていません。

「きみ」以外の登場人物は主人公とすれ違うようにして、現れては消えてしまいます。小説の登場人物は十人程度ですが、複数のチャプターに出てくる人物は英語指導助手仲間のポールだけです。彼以外はいつのまにやら小説の舞台から降りてしまっているのです。アメリカ時代の恋人や心斎橋でセックスした女性は重要な人物のように読めるのですが、次のチャプターになると出てきません。使い古された表現ですが、走馬灯のような人生の記憶という言葉が非常にふさわしい作品ですね。

エピソードがバラバラならば、それらをつなぐセンターラインが必要なのですが、これが曖昧模糊としています。序盤、オリエンタリズムという概念が出てきます。これがセンターラインになるのかと思ったのですが、うまく話が消化されていないまま話が進み、中盤では消えてしまっています。

これが残念でならないんです。オリエンタリズムを概念的にうまくコントロールできれば、ただの半生記が小説に進化したはずだからです。

京都に移り住んだ「きみ」は外国人扱いをしてくる地元の日本人にいらだちます。いくら京都に住んでいても、ずっと同じ扱いをされるので、やがて「きみ」は京都が嫌いになります。

それは、彼がオリエンタリズムのような画一的なイメージで日本を見たくないという信念があるからなんです。高校生時代に彼が初めて京都に訪れたときの態度でそれとなく書かれています。ただ、これはE・サイードが提唱した概念を知っていなければ見落としてしまうぐらいに自然に書かれているんですよね。まあ、フラグなのでそれでもよいのですが。

旅行から戻って、主人公はアメリカの州立大学で文学を専攻します。そのころ付き合っていた恋人から「マイ・リトル・オリエンタリスト」と呼ばれます。オリエンタリズムの思考を避けている「きみ」からすれば、これは明らかに蔑称です。それを証拠に、「きみ」が日本で英語指導助手をすることを恋人に告げたときに、このようなやりとりが交わされます。

「さあ、マイ・リトル・オリエンタリスト」
「別にオリエンタリストじゃないから」

まあ、それまでの四年間、「マイ・リトル・オリエンタリスト」といわれてなんで怒らないのかという疑問はあるんですけどね。

大学を入学してから卒業するまで、紀行文学に読むふけっていたと書かれてありますが、そこはE・サイードの『オリエンタリズム』にするべきでしたね。『オリエンタリズム』を読めば、恋人の何気ない言葉に違和感を持つことができたはずです。恋人のほうから『お菊さん』の話をさせてオリエンタリズムに持っていくのはあまりに不自然すぎます。

「きみ」は恋人と別れ(?)、日本について理解を深めるべく、京都府南丹市の中学校に赴任します。「きみ」は日本に馴染もうとしているのに、そこで出会うひとはみな、「きみ」をよそ者のガイジンとして接します。英語で話しかけられたり、アメリカでの生活について質問されたり。

日本人はオリエンタリズムの亜種ともいえる「ウエスタニズム」で「きみ」に接してきているわけですね。日本人は外国人、特に西洋人にある種の先入観を持って外国人を見ているのです。「きみ」がオリエンタリズムを嫌っているのは先に書きましたが、日本人は悪意なくオリエンタリズムに類することをしてるんですよね。だから、「きみ」は地元の日本人に腹を立てる。この心理はうまく書けているんです。

でも、そこからが残念なんですよね。

オリエンタリズムの概念を知っている人間にしか伝えられないように書かれている。これではただ単に、外国人に接する日本人の態度が気に食わないととられても仕方がありません。実際に先に小説を読んだ書店員の方々はそのような感想を述べていらっしゃいます。

でも、書店員の考えもまた「きみ」が忌み嫌う見方なんですよね。すべての在日外国人が英語で話しかけられるのを拒んでいるわけではないでしょうから。認識を変えても、その認識がパターン化していれば、ステレオタイプなイメージを抱いていることには変わりません。作者はそれを望んでいるのでしょうか? 答えはラストのホテルのシーンに記されているかもしれません。

もう一つ残念なのは、「きみ」が心斎橋でセックスをした女性の扱いなんですよ。セックスしてそれで終わり。これはいけません。

実は「きみ」は心斎橋でセックスをした女性にオリエンタリズム的な東洋人のステレオタイプを期待してしまいます。それは「きみ」のなかにある日本への期待、そう、「きみ」が日本の人々にされてきた嫌なことと同じことを心斎橋でセックスをした女性にしようとしているわけです。

普通に暮らす人々への認識であればオリエンタリズムのような偏見を避けられても、男女の関係ならそれは避けられない。これは小説のコンセプトとしてはすごく魅力的だったと思いますよ。ここから話が動き出せば面白くなったはずなんですよね。たとえ、外国人の恋人との三角関係というベタな展開になったとしても!

でも、結局のところ、作者は非現実的なヘイトスピーチで話を変えてしまいます。インターナショナルパーティーで酒に酔った日本人から「帰れ、ガイジン。国に帰れ」と言われます。これはこれはある意味、日本人を馬鹿にしている気がします。作者はトランプ前大統領を蛇蝎のごとく嫌っていますが、このような思想の偏りが日本人に対する悪意のある描写を生み出しているのなら、これは大問題です。

外国人に対して差別的な言葉を、街宣車の近くで言われるのなら分かりますし、どこかの居酒屋ならまだよしとします。でも、外国人と交流したがるひとが来るような場でこんなことをいうひとがいるでしょうか? 作者の日本人への理解を疑いたくなるシーンでした。ひょっとしたら、グレッグは日本人を見下しているのかもしれませんね。まあ、不愉快でした。

そこから先は単純にストーリーが展開していきます。小説になろうかというタイミングで小説になるための一歩が踏み出せずに終わっているのです。このようなことを、昨年の太宰治賞の選評で奥泉光さんがおっしゃっていましたね。何かが起きそうで何も起きない。すべては時間が解決する。そんな話の流れなんですよ。

結論で言えば、買ってまで読むべき本ではないです。文章は確かに走っているときの情景描写は優れていますが、それ以外は特段、風情のある文章はなかったです。ときどき不自然な日本語がありますが、それよりも小説に出てくる地理がおかしなところが気になりましたね。多分、作者は小説を書くにあたり京都に出向いていないと思われます(作者は東京都在住です)。それを補うための校閲なのですが、講談社さん、相変わらず仕事していないですね。本当に呆れかえります。

第三回の京都文学賞、応募作は210編ほどだったようですが、次はどんな作品が受賞するのか。私は応募できなかったので、どうでもいい話ですけれども。でも、この賞そのものは小説家を生み出すために手厚いサポートをしている文学賞の一つであることは間違いないので、存続のために、より良質な小説が応募されていることを祈らざるを得ません。

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