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学びが役に立つかどうかなんて

学ぶことの目的は何か?
今の私の生活圏では、学ぶこと、とりわけ大学という研究機関での学びについて誤解されているように思うことがある。誤解されているというと、私の考えが正しく他人の考えが間違っている、というように捉えられかねず語弊があるけれど。なんかなぁ、そうじゃないんだよなぁ、と思う点について、言葉にしてみよう。


大学院を出て27歳で地元に戻って魚屋になった当時、誰と言うわけでもなく広く周囲からしばしば言われたこと。

「大学院出て魚屋なんてもったいない」

「大学行ったの意味ないじゃん」

「まぁいつか何かの役に立つよ」(励まし的なニュアンスで)


別に何を言ってくれてもいい。と言いつつ本当は「もったいない」はやめてほしいと内心思っている。あまりにも私たちのお店に対して失礼なので。うちが町の魚屋じゃなくて日本を代表する水産会社だったら出てこなかった表現だろうから。言われて気持ちのいいものではない。


結論からすると、私が長く大学にいたことは、今の私や会社にとってもったいないわけでもなく、意味がないものでもなく、その逆に特別役に立つものでもない。だって私が自発的に学びたくて得てきたものは魚屋になるための知識ではないし、その意味は周りの人にも関係のないものだから。何かになるためじゃない。将来に備えてではない。解決したい疑問があるから学ぶだけ。自分の探求心に従っただけなのだ。

そういえば学生時代、専門学校に通っている友人に「まゆが行く学部って何の就職に強いの?」って言われたことがあった。

そのときの私の答えは「え…就職のために学部を選んだわけではないのだけど…」

その時改めて思った。皆、何かになりたくて、特定の職業に就きたくて進学なり居場所を選択しているのかと。

その友人からみると、当時の私は就業意識が低い若者に見えたかもしれない。一方本人は、就業意識云々は問題ではなく、「職業人としての何かになるために今何をやろう」という意識の下で生きていない。積み重ねの上に何かがきっとあるだろつ、としか考えていなかったのだ。だから、大学院を出て「それ何に役に立つの?」と言われても困ってしまう。


だって、そもそも魚屋になった今の自分に役立てようなどとは考えていないから。

一方で、役に立たないわけがないとも思っている。


自分が熱を注いできたことが、数年かけて結果を追い求めてきた過程が、役に立たないことなどあるのだろうか?少なくとも私は、知識を得る過程の踏み方と、自分の中に蓄積させやすい学び方、つまり、自分に合った勉強の仕方を知った。研究を続けるなかでこの能力はかなり鍛錬される。これは、今後新しいことを始めようとしたとき、新しい環境で身につけるべき能力が見えたとき、発揮されるものだろう。


それぞれの職業で最低限必要な知識や技術は異なる。それはその世界に入って身に着けていく、入ってこそ身についていくものだろう。だから、そこでの身につけ方が重要になってくると思うのだ。自分に合った方法で可能な限りストレスなくその世界で必要なことを身につけていく。そのためには、「学び方」を知っていることは、かなりのアドバンテージになると信じている。これは物事に取り組む「姿勢」の問題だと。


学ぶことが生き方の中に組み込まれていることは無駄ではないということ。学んできたことが「何の役に立つか?」が重要なのではない。「学ぶという姿勢」が各々の中に確立されていることが、本当に役立つことではないだろうか。

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