「痴漢」だったわたしについて

 もう十年以上もまえのことだが、もはや老舗だという一点でのみその名が知れ渡っている「歴程」という詩誌に掲載されたとある記事のなかで、わたしがその記事の作者の詩人(以下某氏)にたいして痴漢を働いたと書かれたことがある。

(…)そして、いきなり抱きついてきた。知りもしない人間に襲われて反射的に逃げようとしたが力も強いし体も大きい。私は抱き押えられた。女名を語ってきたばかりなので私は女だと思い騒げなかった。女だと思っても頭の中は「怖い」という言葉だけが響く。

「歴程」No.577

 当時、某氏の作品を愛読していて影響もうけていたから、作者と実際に対面できてただただ感動していたことはたしかだ。詩歌の同人誌の即売会に出店していた某氏と歓談し、会場をまわるうちに何度か顔をあわせてうち解けられたのだと早合点して、その催しの終わり頃になってこちらからハグをしたのもたしかだ。幼い頃からおもにアメリカで制作されたドラマを好み、またミュージシャンや若手の芸術家の集まりに顔をだしていたこともあって、ひさしぶりに会った誰かやなかよくなった誰かとハグをするのは、至極あたりまえのことだと認識してしまっていた。某氏は「某氏は「うーん」と声まで出して私の体の感触を味わい楽しんでいる」と書き、「後で知った事だが、性同一性障害でもとは男。男の力で女の私を抱き押えてきた」とつづけ、「女だろうが男だろうが中性だろうが、所構わず他人に抱きついてくるのは痴漢である」と主張しているが、わたしは別段某氏のからだの感触を味わい楽しんでいたわけではないし、力をこめて相手が逃げだせないように羽交い締めにしたのでもなく、ハグが痴漢行為だという認識さえまったくなかった。後日、某氏の朗読会へでかけたあとの打ちあげで、わたしが性同一性障害であることをカミングアウトしたと記されている(記憶はあやふやだが、そうなのだろう)。

私は二十代の頃から性同一性障害・同性愛の友人がいるが、彼女たち(もとは男)は繊細で優しく某氏とは性質が随分と違っている。帰り、中央線で途中まで某氏と一緒だった。(…)その私に「今度は二人だけで飲みたいなあ」と誘いをかけて某氏は電車を降りていった。

(同上)

 わたしはたしかに繊細さには欠ける性格かもしれないし、某氏にとっての性同一性障害者像からはかけ離れていたのだろう、しかしそれは偏見ではないか。性同一性障害者であれ、同性愛者であれ、シスジェンダーや異性愛者とおなじように、性格や性質は個々に違っているはずだ。こうした性規範を盾にわたしを攻撃したかったのはそれだけの恨みを抱えていたからだろうが、貶めかたとしては差別的だといわざるをえない。しかも「今度は二人で」などと誘った憶えはないし、むしろ「今度また飲みましょうね」と、たとえそれが社交辞令であったとしてもそう誘ってきたのは某氏のほうで、それを真にうけたわたしが、帰りぎわに、「絶対実現しましょうね」と念をおしただけである。某氏は「デートの誘いはお門違いだ」と書くが、そもそもわたしはそんな誘いはしていないので、事実誤認だといえる。また、窃盗被害に遭い、ある日たまたま警察から電話があったと書く某氏はこうつづける。

(…)窃盗にあった事実よりも私は知らない人間に抱き押えられた事実の方が堪えていた。本人などどうでもよく、力で押さえつけられた恐怖心と、身動きが取れずに全身が肉に埋もれた気色悪い感触だけが半年以上私について回っていた。(…)女性の刑事さんだったこともあってこの出来事を話す。女のふりをして油断させるのは悪質だと言う。やはり性的暴力を私は受けたわけだった。刑事さんは犯罪者を常習犯と考える(…)、「なにかされたらすぐ通報するように」と注意を促してきた。

(同上)

 わたしがとった行動のせいで半年以上も苦しめていたのなら申し訳ないと心底思う。ただわたしは「女のふり」をしていたのではないし、「油断させ」ようとしたのでもない。けれどわたしの行動は性的欲求を満たそうとしてなされたわけではないから、「性的暴力」ではないとしても、たんなる「暴力」ではありうる。そしてそれまでに幾人もにおなじような思いを味わわせてきたかもしれないと反省する。

 数年後、まったく別のパーティーの会場で、とある詩人から、「櫻湖さんは髪がきれいね」と勝手に髪の毛に触れられて、ひどく狼狽えたことがある。某氏がわたしに「抱き押え」られたときに味わったのとおなじように不快に感じたが、そこに性的な意味あいはないだろうことは判断できたし、褒められているのだからと平静を保とうと努めるのに必死で、不快だと告げられずにいた。そのときにふと、先述した記事を憶いだし、わたしは自身の誤りに気づく。こうした、予期せぬ、そして悪意のない身体的接触というものが孕む暴力性というものを強く認識させられる一件であり、そしてそれが日常的に、さまざまな場所で起こっていることにも気づかされたのだ。たとえばそれはなんということもないあいさつとしてあらわれることがある。握手を求められ、それに応じたくないと思っても、瞬時に手をひっこめたり、握手をしたくないと断ることは、相手からの心証を悪くする恐れもあり、また相手を不快にさせたりはしないかと躊躇って、結局手を握りかえしてしまう場合が圧倒的に多いように思われる。握手にことさら性的な意味あいが附与されているかどうかはそのときどきによって違うかもしれないが、したくない相手から握手を求められ、断れずに応じざるをえないというのも暴力のひとつだと見做しうる。
 ひとは誰であれ、相手の許可なしにそのからだに触れてはならない――。おおむねそれは間違ってはいないと感じてはいる。しかし許可をえることなしに誰かのからだに触れてしまうことはままあるし、許可をあたえてはいないのに誰かから触れられることもままあるが、そのときどきにいちいち腹をたてたり、抵抗したり、咎めだてたりすることはない。こちらが基本的なコミュニケーションのつもりであっても、相手からしたら脅威に思われることもあるのだろうから、ことに慎重になってしかるべきではあるが、とはいえ個々の慣習や、いわゆる常識の範疇におさまっているはずの「あいさつの様式」と呼びうるものの齟齬については、おそらくはいくら出会いを重ねても解消することはない。そして、「あいさつのつもりだった」と弁解することすら、相手にさらなる恐怖心や不信感を抱かせる結果になるかもしれない。
 だからひととの対話はむつかしい、と結論めいたことばをおくことはしかしできない。わたしと他者との侵しがたい領分とその接触にまつわるこの思い巡らしは、ある種のアイロニーとして提示される。個人の尊厳の周辺では、微妙で、繊細な、被害者性と加害者性が絶えず反転しつづけ、論理という武器らしい武器では太刀打ちできない怪物が、その鋭い爪と牙を輝かせている。

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