21世紀の音楽カタログ

 2008年に音楽之友社から発刊された『現代音楽を読み解く88のキーワード』(ジャン=イヴ・ボスール著/栗原詩子訳)の巻末には1908年から2006年までに発表された重要度の高い作品や出来事を年表式に列挙したリストが収録されている。300を超える項目には、ドビュッシーやストラヴィンスキー、バルトークやショスタコーヴィチといった既に古典になりつつある作曲家らの諸作品が並んでいたり、ケージ、シュトックハウゼン、クセナキスなどいわゆる現代音楽を代表する作曲家の名もあれば、パスカル・デュサパン、ハイナー・ゲッベルス、イヴァン・フェデレのように戦後生まれの中堅作曲家の作品まで網羅的にとりあげているので、現代音楽を体系的に聴いていきたい初心者にとってはこれだけでもとても貴重な資料だといえるだろう。とはいえこのリストが作成されてからさらに15年の歳月が流れ、その間にもあたらしい作曲家のあたらしい作品が続々と出現し、発表されていることもまた無視できない事実であって、そうした意味ではもはや21世紀にはいってからの音楽を聴こうとするならばやや不完全になってしまっていることは否めない。ベリオもリゲティもブーレーズも、もうこの世にはいないのだ。そこで今世紀にはいってから活躍しはじめた若手作曲家らの作品を中心に、そのほんの一部をご紹介したい。
 クラシックを専門にあつかうレーベルが世界には多くあって、Deutsche GrammophonやDecca、ChandosやNaxosなどが有名だが、現代音楽専門のレーベルというものも存在し、ECM、Kairos、Neos、Col Legnoなどがそれにあたる。著名なレーベルから現代音楽作品だけをまとめたタイトルが発売されることはあまりないが、各国の中小規模のレーベルから当国の作曲家を中心に若手作曲家の作品集が発売されることも多く、デンマークのDacapoやフィンランドのOndine、フランスのNaïve、ドイツのHänsslerなど数多い。日本ではカメラータ東京やフォンテック、コジマ録音などが精力的に新譜を発表している。ドイツには「ドナウエッシンゲンの音楽の日々」(Donaueschinger Musiktage)のように現代音楽だけをとりあげる音楽祭まであって、毎年、前年のライヴ録音をまとめたボックスセットが前述のNeosレーベルから発売されている。2015年末、2014年の録音をまとめた3枚のCDと1枚のDVDからなるボックスセットが発売されたが、フリードリヒ・チェルハやブライアン・ファーニホウなどの大家からペーター・アブリンガー、サルヴァトーレ・シャリーノといった中堅作曲家の作品のほかに、シモン・ステーン=アンデルセン、オンドジェイ・アダーメク、ジェニファー・ウォルシュら若手作曲家のマルチメディア作品は映像として収められている。ここで後者三者に共通するのはいずれの作品も絶妙な諧謔性をしっかりととりいれているところにある。あるいはあたかも1970年代に破綻した、頑冥な「いき過ぎた前衛」を過去のものとして笑い飛ばすことにこそ、今日の作曲家の主要なテーマだとでもいうかのようなのだ。それぞれ76年、79年、74年生まれの彼らにとって、半世紀ほども離れた世代らが開拓した前衛主義など黴臭さやともすれば腐臭のするものに違いなく、先行世代が封印しようとしたものを躊躇うことなく容易に自作に混入させてしまうのである。むろんそうした流れでさえ戦後世代が熱心にとりいれた手法であることを意識しつつ、複雑さや平明さが必ずしも対立するものではなく、シリアスな芸術音楽とその他の音楽とを別け隔てようと画策してきた200年以上の歴史に終止符をうつかのように、たとえばウォルシュの《トータル・マウンテン》(2014)にはTwitterといった新興メディアやそれを介してOne Directionまで登場するほどなのだが、彼女ひとりが舞台(空気で膨らませたビニール製の椰子の樹や、あまりに安っぽい装飾品がでたらめに並んでいる)にたち、マイクを手に奇天烈なパフォーマンスをくりひろげ、動物の仮面を冠った数人の人物がゆっくりとした奇妙な動作を、おそらくはイギリス郊外の庭園などでなんの脈絡もなさそうに演じてみせるのを撮影したフィルムが流されたり、一見すると現代音楽だとすらおもわれないような、あたらしさと滑稽さとが同居した演劇作品のようでもあるが、そうした得体のしれなさを包括してしまうユーモアがそれを拒絶することを諦めさせる。この作品ではパフォーマーである彼女(の声)以外、楽器らしいものはなにも登場しないが、YouTubeで視聴することも可能な彼女の諸作品に共通するのは伝統的な音楽観の破壊というのでもなさそうで、その姿勢はWikipediaにあるように、「旋律や和声が織り成す時間的構成に全く興味を示さず、特異な特殊奏法のみで楽曲を構成する異色の存在」だというだけで、それはシェーンベルクのもとで学んでいたケージが「和声の感覚がないと、作曲家というよりは発明家だと評され」(『ジョン・ケージ著作選』小沼純一編/ちくま学芸文庫)たのに似ているかもしれない。
 1970年生まれのミシェル・ファン・デア・アーは自身が主宰するレーベルDISQUIETから3枚のCDと2枚のDVDを発売しているが、ヴァイオリン協奏曲(2014年)とクラリネットとアンサンブル、サウンドトラックのための《ヒステリシス》(2013年)の二作が収録された最新作は彼の多才ぶりを最大限にひきだした一枚となっている。作曲のほかに映画監督としての一面も見せる彼は、2002年にソプラノ歌手のバーバラ・ハンニガンのために、ソプラノ歌手と映像、サウンドトラックのための室内オペラ《One》――この作品でもソプラノ歌手がひとり舞台に登場するだけで、従来の楽器は使用されず、その代わりに懐中電燈のスウィッチを押す音や枝を折る音などがサンプリングされ、歌手の声も瞬時に加工されそれらと混ぜあわされてスピーカーから流される――を発表し好評を博したが、一方、ヴァイオリンと古楽器アンサンブルのための《インプリント》やソプラノと管弦楽のための諸作品を並行して作曲するなど、興味の対象はかなり幅広く、古典的な技法とテクノロジーとをいとも容易く融合させてみせる。それは旧世代が発明したミュージック・コンクレートのような既に錆ついたものを持ちだすのでは決してなく、ライヴ・エレクトロニクスを駆使したり、あらかじめ録音されたトラックと演奏家が舞台上で複雑に協奏し、またはスクリーンに映しだされた映像との共演は、たとえばスティーヴ・ライヒの《ザ・ケイヴ》(1993)をさらに推し進めたかのようでもある。舞台演出や作詞まですべてひとりでやってのけるファン・デア・アーはそういった意味においては稀有な存在で、ライヒでさえ妻で映像作家のベリル・コロットとの共作であったことを考えると、あたらしい時代の舞台芸術の在り方を提示されたかのようであり、オペラが総合芸術であった時代はとうに1世紀以上昔のことになってしまったが、それに替わるようにして映画の隆盛が起こり、大衆の関心がそちらへ完全に移ってしまったあとになにができるのかを指し示す重要な存在である。話を戻すと、ヴァイオリン協奏曲ではいたってオーソドックスな、彼にしては珍しく電子音響などを用いない標準的なオーケストラとヴァイオリンとの、伝統的な形式である「協奏曲」と真正面からむかいあった華麗な作品世界を聴かせてくれるが、《ヒステリシス》の冒頭では長めのクラリネット・ソロにアナログ・レコードが発するノイズをおもわせる電子音がオーヴァーラップされ、やがて室内アンサンブルがそれに加わり、ジャズやロックからの影響を多分に窺わせる潑溂とした音響空間がたちあがる。ラップトップが生みだすチープなサウンドトラックとノン・ヴィブラートで奏される弦楽器群とは反撥しあうことなく継ぎ目なく調和し、一方がもう一方を補完したりひきたてたりするのではなく、ここでは三者が互いに主張しあって、とくにエレクトロニクスがただの効果音におさまることもない。つづく第2楽章ではドラムスがそれらを盛りあげ、機敏に跳躍するそれぞれのパートが醸しだす活気に満ちた雰囲気は、伝統的なコンサートホールを支配する保守的で表面的な礼儀ただしさだけを重んじるようなそれからはおおきく隔たっていて、芸術音楽がたんに教養のためだけに利用されてきた時代を拒絶するかのようでもある。セルゲイ・プロコフィエフの孫のガブリエル・プロコフィエフが、主にクラブで用いられてきたターンテーブルとオーケストラのための協奏曲(2007)を書いて聴衆を沸かせたように、彼らはハイカルチャーとそれ以外とをつねに峻別してきた偏屈な楽壇への軽やかな訣別を告げ、そうしたポスト・モダン的なふるまいすら鼻で嗤っているふうなのだ。
 1972年にエストニアのタルトゥで生まれたヘレナ・トゥルヴェはエルッキ=スヴェン・トゥールに師事しジョルジー・リゲティやマルコ・ストロッパの講習をうけIRCAMで学びながら、パリ国立高等音楽院でグレゴリオ聖歌の研究によってプルミエ・プリを獲得している。ECMから発売されている二枚の作品集のうち一枚目の《Lijnen》(2008)はスペクトル楽派の影響が色濃かったが、二枚目の《Arboles Ilran por Iluvia》(2014)ではトゥルヴェの古楽へのつよい憧れを感じさせ、あざやかな個性を発揮させている。声楽作品の数が多いのも特徴で、二枚とも古楽の専門家として名高いジョルディ・サヴァールの娘であるソプラノ歌手のアリアンナ・サヴァールが参加している。冒頭に収録された《Reyah hadas ‘ala》(2015)――Google翻訳を駆使すると「マートルの香りはたち昇る」とでもなるだろうか――はふたりのカウンターテノール独唱をふくむ聖歌隊と古楽合奏のための作品だが、その楽器編成から懐古的な作品を想像するのは間違いで、どこをとっても未知なる聴覚体験に溢れている。その経歴から隣国のカイヤ・サーリアホとも比較されるようだが、中世ヨーロッパを題材にしたりスーフィズムの詩を用いるなど、ある種のエキゾティシズムに傾倒した作品を書くふたりにはたしかに共通点も多いが、サーリアホがどちらかというと音響面での官能性の追究に勤しんでいる一方で、トゥルヴェはより斬新で神秘的な音楽づくりに熱心だといえ、ソプラノとオーボエ、グラス・ハーモニカのための《沈黙/涙》(2006)や三挺のヴィオールと弦楽合奏のための《あなたのうしろの影》(2011)などを聴くかぎり、あるとき街でラジオから流れてくるグレゴリオ聖歌を聴いて創作の源泉としたアルヴォ・ペルトのような「あたらしい単純性」の作風とはまったく異なり、古楽器の特性を充分に生かしながらもまあたらしい音色の創出に関心が向かっていることがわかる。声楽とニッケルハルパ(スウェーデンの伝統楽器)のための表題作(2006)――「雨に泣く樹」とでも訳せるだろうか――はそれこそ大江/武満の「雨の木/樹」に通じる作品だともいえ、枝葉に滴る雨粒を模した声やニッケルハルパの爪弾きによって静かにはじまり、ソプラノとカウンターテノールのソロがセファルディムに伝わる詩をしっとりとやわらかに唱いあげる。ミシェル・ド・セルトーのことばに基づく管弦楽曲《Extinction des choses vues》(2007)――「見られたものの消滅」――は一転してリゲティが発案したミクロポリフォニーに接近したような複雑な音楽で、ゆたかで層の厚い強靭な展開は圧巻だが、生真面目な構成の向こう側に神秘主義への陶酔が垣間見えるのはトゥルヴェならではだろう。この作品集はサヴァールの母であり、古楽界を代表するソプラノ歌手である故モンセラート・フィゲーラスに捧げられている。
 ほかにも魅力的な作曲家や作品はいくらでもあるが、そろそろ紙幅も尽きるため、いったん筆を擱くことにしよう。日本ではどれだけ著名な作曲家の代表作であってもなかなか実演には恵まれないし、音源すら入手しづらくなってきてはいるが、あたらしい音楽への探究心は尽きることがない。

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