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もうこれ以上世の中はフラットにならなくていい

煽情的なタイトルで失礼します。くぼたです。

ご無沙汰しておりました。

今月で休職してから丸4か月が経とうとしていますが、ようやく次のお仕事に就けそうです。
ご心配してくださった方、様々な形で応援・支援をいただいた皆様に心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました!

4月から次のお仕事となりそうなので、何か言い残したこと、遊び残したことなどあれば今のうちにお願いいたします…m(__)m

今度はいろいろ取材したり、記事を書いたりというお仕事なので、その練習として、今回から1週間ごとにnoteで記事を更新して行きたいと思います。

基本的にその時に起きた出来事、読んだ本、見た映画などを通して僕が考えていることを綴っていければと思います。

今日はその第一弾。

まずは最近周りで起きたできごとから。


最近のできごと

・コロナにまつわるいろいろ

市中感染が始まり、混乱はより一層深刻の度を強め、東日本大震災直後のような状況になってきている。

正確・不正確な情報が入り乱れ、政治性を帯びた発言も見受けられ、更なる分断の温床になる可能性が極めて高いと感じる。


・サウナにめっちゃ通っていて、そこでできたコミュニティを目撃する⇔ネット上の評価との乖離

最近サウナにめっちゃ通っている。

地元だけでなく東京のサウナに行く機会があるが、それぞれで全く異なるルール・マナー、果ては「文化」とも言えるようなカオスが拡がっており、それも含めて楽しんでいる。

ただ、ネット(特にGoogleマップ)の評価を見ると、「地元民のマナーが悪い」など外部からの来訪者による低評価を見かけることがある。

また、施設のいたるところに張られた入浴マナーへの注意書きも、最近はなんだか気になってしまう。


・地域コミュニティとの関わりと「モンスター」の表出

しばらく仕事をお休みし、時間に余裕があったので、後々地元でいろいろできるように、今のうちにコネクションを作っておこうといろいろ動いている。

当初想像していたよりも、いわゆる「地域」というのは関わろうと思えばいくらでもウェルカムしてくれるのでありがたい。

ただ、やっぱり課題は多い。

そもそも地域のコミュニティに企業組織のようなレベルを求めるものではないが、それゆえに「切り捨てることができない厄介」は深く根を張っている。

特に、正義を振りかざし、常に喧嘩腰でコミュニケーションしようとする、いわば「地域のモンスター」のような人の存在。

そうした「モンスター」の扱い・距離の取り方には未だに良い解を見出せない。


最近読んだ文章・見た映画

最近の僕の思考を形作っている文章や映画を挙げていく。

最近の僕の思考の根っこにあるのがこの映画評。
特に最後の「正義と享楽の一致は、我々が共同体の「場」に埋め込まれている時にだけ可能になる。「個人」には到底不可能なワザだ。」の一文。

すみません、今更ですが読みました…
この本、上の「この世界の片隅に」的アプローチで、今の福島・常磐・いわきを捉えようとしていると感じた。
福島以外の多くの地域に適用できるヒントがたくさん隠されている。

ジモコロの柿次郎さんからお借りして拝読した本。
僕の考えていることを言語化するのにとても参考になった。
地域と関わる中で首肯できる部分が多い。

ここからは映画。

これも今更ながら見た。
これから夢を追いかけ、駆け出そうとしている自分と、現在の社会状況の両者を客観的な視点から見つめなおすのにぴったりで、今見てよかったなと思った。

これも今更見なおした。
この映画が出た当時はまだいろんなことがフラットではなく、様々な理不尽があったんだろうなと感じる。
ただ、そういう世の中と今のフラットな世の中のどちらが幸せなんだろうなとは思った。

1930年代のスウェーデンの少数民族の葛藤を描いた映画。
自分は非差別化に置かれているという状況ではないけれども、「洗えない血」、または「解けない呪い」である「出自」を抱えた人間として共感できる部分が多かった。

二度目の鑑賞。
これはどちらかというと自分の内面に刺さる映画。
11月の休職直後に見た時はなんだか自分より遠いところにある物語と思っていたが、今回はより深く作品に没入できた。
この映画も、広い意味では「この世界の片隅に」的なアプローチをとっているのかも。
光石研演じる銭湯の親父がめちゃいい。前を向ける映画。


最近よく考えること

最近はあらゆる物事を「フラット」「非フラット」の軸で考えている。完全に宮台の影響。

なぜそうなったかというと、そうした方が精神衛生的に良いからなのかもしれない。

以前の僕は「都市と地方」「男性と女性」「年長者と年少者」などのあらゆる対立軸を本来フラットであるべきだと考えていた。

だからこそ地元の企業に勤めた時も、常に市場原理と最新の潮流に最適化された企業体質を求めてしまい、ミスマッチが起こっただろうし、家族や地元に対する態度も「非フラット」的である田舎の家族には非常に無理があるものだったと感じる。

そうした態度は「結局自分一人ではどうしようもないものとしての社会」と「個としての自分」の間に大きな溝を生み出し、1人でただただ思い悩むような状況を作り出してしまった。

今は、上のような思考の軸を取り入れることによって、「そのもの」として受け入れなければならないこと(=自分の中で非フラットと位置付けたもの)と、自分次第で何かできそうなこと(≒自分の中でフラット、またはフラットにできそうであると位置付けたもの)の間に明確な線引きができるようになり、ものすごく肩の荷が下りた。

ものすごく個人的かつ観念的な話をしてしまった。

いま僕が考えていることは大体以下の通り。


「理想としての平等」と「現実としての多様性」、またはその逆転

「人は皆、生まれた時から平等です」
我々は幼年期からそう教えられて生きることになる。

そして、現在はそうした理想がだいぶ現実に落とし込まれることによって、「いい世の中」に近づきつつある。

「いい世の中」に近づきつつある例として、上に挙げた『おもひでぽろぽろ』で考えたい。

本作は1991年公開の映画で、27歳の主人公が小学校5年生の自分を回想しながら物語が進む。
仮に主人公が1991年時点で27歳と考えると、小学校5年生(=11歳)の頃は1975年にあたる。

作中で小学校5年生の主人公は性教育の授業を男女で別々に受けており、それによって、「生理」にまつわる様々な誤解が男子の中で生まれ、女性として生まれた主人公は学校の中で理不尽な思いをする、という表現がある。

もしこの映画の時代設定だけが現在にすり替えられ、本作のような「男」「女」の扱いをすれば大きな物議を醸すことになるだろう。

そのように現在ではあらゆることが「フラットでなければならない」とされている。

男女の性差はもちろん、田舎と都会、年少者と年長者…挙げればキリがないが、現実的には「個体差」や「多様性」をもってこの世に存在するあらゆるものを、「1単位の個」として「平等に」扱う世論を強く感じている。

男性の育休取得、地方"創生"、世代間格差の是正…

これらは非常に「リベラル」で「都市的」で「先進的」な主張だ。
そして、「理想」として追い求めるべきものだろう。


だが、これらの主張が「現実」として徹底されるとしたらどうだろう。

都会で生まれようが田舎で生まれようが、一人の人間として学歴や能力によって"平等に"評価されなければならない。

伝統的に男女での分業が徹底されている農林水産業などでも男女の雇用・所得格差を是正しなければならない。

老幼問わず保険料は一律でなければならない。

男性も妊娠の苦しみを味わわなければならない…?

デジタルによってあらゆるものが「フラットなもの」として議論されるようになった現在では、もはやどこまでが現実的な議論でどこまでが極論になるかわからなくなってくる。

少なくとも田舎の極地である農山漁村で生まれ、暮らそうとする人間は、上に挙げたような例が徹底されると間違いなく割を食う。
元々「非フラットな社会」として安定的に持続ができていた社会が、いま、「フラットな価値観」が挿入されることによって崩壊しようとしている。

もちろん「都市と田舎」という軸だけではないだろう。
専業主婦として暮らしていた女性は仕事に駆り出され、最新の技術に適応できない老人は金銭的にも心理的にも負担を強いられることになる。

そしてその成れの果てに、極度に平均化された「個人」が生まれ、「生産性」や「市場価値」という言葉で一律に評価されてしまう世の中になったのではないだろうか

そして、「理想」であったはずの「平等」が「現実」となり、逆に「現実」であったはずの「多様性」が「理想」に変容しつつある

それが現在ではないだろうか。


理想と現実の間で常に揺れ動きながら生きるということ

僕はすぐ極端な選択をしてしまう。
そして、そういう自分の性向を踏まえて中庸的な選択をしたとしても、結果としてモヤモヤしてしまうことが多い。
だからとても生きづらいし、難しい人間だと思われがちだ。

だけど、いや、だからこそ、常に理想と現実の間で揺れ動きながら生きていたいと思う。

つまり、極論ともう一方の極論を意識しつつ、しかも直線的ではなく、多方向に思考を巡らせたい。

そうしたほうが精神衛生上ヘルシーだし、社会に対しても寛容でいられる。

これは上記の『この世界の片隅に』や『新復興論』で提示された思考のやり方だ。

あらゆるものが二項対立の議論で消費されるいま、もっとこうした考え方が広まるといいなと思う。

この考え方ができれば、二項対立で争い合う人々にすら寛容になることができる気がする。
すなわち、彼らが「なぜ二項対立に陥ってしまったか」を考えることもできる

決定打のような結論を編み出せなくても議論に参加できる。
そうした態度を醸し出せれば、より寛容で、本来的に民主的で自由な社会に少し近づけるような気がする。

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