運動会、それは日本の宝だ(パート1)
アメリカで日本人学校の運動会係になった。
それがことの始まりだった。
そもそも、私たちが住まうラスベガスは、
ニューヨークや、ロサンゼルスなど他の大都市に比べると日本人は少ない。ということで自然に、日本語を習う補習校の規模も小さくなる。
幼稚園年少さんから中学校3年生まで、合計100人前後の小さな学校である。親は必ず何らか学校の活動をサポートする係につかなければならない。
毎週図書室を整理して貸し出す図書係、バザーを開催するバザー係…
多様な係があり、それぞれの事情や得手不得手に合わせて親は係を選ぶ。
もちろん、人気の役職には”じゃんけん”という公平な賭け事が待っている。
駐在の日本人両親の子どもよりも、国際結婚でどちらかの親が日本人、
という家庭が多いので、日本語が読めない親のためにも連絡メールは必ず日英両方で記載されているのだが、そこにも”Parent Volunteers”ではなく”Duty”と書かれている。
「避けては通れないぞ!」という熱い思いが伝わる英訳だ。
さて、その中で私と夫が選んだのが「運動会係」だった。
「運動会」ー その言葉だけで胸が高鳴るのは私だけだろうか。
「ちゃっちゃっちゃ!ちゃっちゃっちゃ!」
手首のスナップを抜群に聴かせて、三三七拍子をした小学校6年生の秋。
声が枯れるまで紅組を盛り上げていた元「紅組応援団副団長」は、
未だ私の心の中に住んでいることを、今回自覚することになった。
「これだ!私がやる係はこれだ!」と彼女は叫んでいた。
赤いすずらんテープを学校の机にぐるぐるまきにして、応援のポンポンを作ったあの日。さけるチーズなんて目でもないくらい、できるだけ細かく、細かくテープをさくことで、フワッフワのポンポンを作ることに必死をこいていたあの秋。
埼玉県の学校のくせに、何のゆかりもない山形の花笠踊りや、青森ねぶた祭の「ラッセーラーラッセーラー」を意味もわからず踊らされた学年発表。
あの夏、紅組は勝ったのだろうか。もっとも肝心なことは思い出せないが、
みんなで大声を張り上げて踊り、走った思い出が蘇ってくる。
運動会は楽しい。勝っても負けても何だか楽しいのだ。
アメリカで育つ娘にもそれを知ってほしい。
ただがむしゃらに体を動かして、味方を、敵を、応援し、
謎の踊りを踊って友達と仲良くなってほしい。
そのために何でもしましょう!なんでもしましょうとも!!!
そんな気持ちで運動会係になった。
…がしかし。
甘かった。甘かったのだ。
運動会の準備が果てしなく大変なことを、
子どもの私は知らなかった。
私たちが楽しんでいた裏で、学校中の先生や、PTAの方々が
必死になって準備をしていたことを私は齢34まで知らなかった。
否、頭ではわかっていたが、こんなに大変だとは想像していなかった。
つづく。