2021/08/09私はメンチをたべた
東京に出てきて初めて住んだのは吉祥寺だ。それ以来20年弱、この界隈に住んでいる。最近ふと思う。こんなに長く東京に住んでいるのに、知らない事、行った事が無い場所、入った事がない店が多すぎる、このままでは、私はそれらの事を経験しないままお婆さんになってしまうだろう、と。
それはちょっと嫌かもしれない。
吉祥寺の商店街の真ん中には、いつも大行列がある。ある日私はその行列の横を歩きながら思った。
(私はこの店で何が売られているのか、一生知る事はないのか?)
そんな頃、娘を連れて雨降る朝の吉祥寺を歩いていた。ひと気のない商店街で、娘は着物屋の店頭に並んだ50%オフの浴衣に目を留めた。「買ってー、買って―、買ってくれなきゃ帰らない」と買え買え鬼に豹変してしまった。「ママは突然今、浴衣を買う気持ちにはなれないよ」と言っても、娘は聞く耳を持たない。いやいや、浴衣って、そんなに通りすがりに買うもんじゃないでしょ。娘は私と逆方向にずんずん歩き、全身で反逆を表現してくる。私は静かな街の中心で、イライラを沸々と募らせる。そして、今日、あの店に行列はない。
私は気になっていた。遠目には商品ケースに山積みになった何かが見えるのに、そこで買っている人はいないのだ。しかし、割り込んでいる人だと思われたくない、という自尊心が高すぎて、長い間店に近づくことすらできなかった。
イライラを募らせたエネルギーが体内に溜まっていた私は、かつてないほどの積極性をその店を前に露わにした。ずかずかと進み、ショーケースの前に立った(小ざさ側)。
「いつも皆さんが並んでいるのは、いったい何を買っているんですか?」
上京したての初々しかった私も、20年程の時を経てオバサンになったのだ。何でも聞けます。
「メンチですよ、あっち側で売ってます」
(そっちか!)
「そっちなんですね!」
私は、そっち側のショーケースに並んでいるものに皆が行列している事がわかっただけで、十分嬉しかった。思いの外、本当に嬉しかった。
そっち側の、控えめな佇まいの小さなショーケースには、丸くて大きなメンチカツが並んでいた。
「何個ですか?」
まるで私がメンチの手練れのようにお店の方は尋ねる。いえいえ、初心者なんですよ、という事がわかるようにおずおずと値段を聞くと、一個250円だという。お店の方の気持ちを気にするタイプなので、失礼がない個数を買いたいと思ったが、そんなにメンチにお金をかけられない。
「3個ください」
お店の方は はーい、とテキパキと、丸くて温かいメンチを包んでくれた。よかった、個数に失礼はなかったようだ。
私は温かいメンチカツを片手に、もう片方の手は、浴衣への情熱があっという間に冷めた娘の手を引き、大きな達成感とともに吉祥寺を後にしたのでした。
家に帰って夫に「吉祥寺の行列のメンチカツ買ってきたよ」と言ったら「あれかー」と感慨深げに言い「うめー」って言って食べてました。
よかったよかった。
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