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ギャンブルは弱くていいです【エッセイ】

ギャンブルが弱いです。

ギャンブル弱い、ではなく、ギャンブル弱い。勝てません。
競馬、パチンコ、麻雀といった、いわゆる博打だけではなく、相手と何かを賭けて勝負をするといった物事全般に弱いです。
プリンが一個残っているからみんなでジャンケンなー、というシチュエーションでも、あまり勝てた記憶はありません。
人生ゲームとか桃鉄とか、そういうボードゲームでも戦績はパッとしません。2位まではいけるんですが、どうにも1位を獲れません。

「運」とか「テクニック」の問題以前に、自分の「闘争心」の問題のような気がしています。
生まれてこのかた、他人と競うことがどうにも好みじゃないんです。
もし勝ったとして、よくやった!と賞賛されるのも気が引けてしまいます。
コンテストみたいに、各々が一人で行った結果によって比べられることは大丈夫なのですが、スポーツのように争いというプロセスを経ないと結果が出ないものは苦手です。
「信は力なり」と言いますが、勝負事は「絶対に勝つぞ!」という気合いがあってこそ勝ちを引きつけるものだという気がします。
ぼくみたいに「何だか気が乗らないなぁ」と寝不足の熊みたいなことを言ってたんじゃ、勝利の女神もそっぽを向くというものです。
そういった闘争心の無さが、勝負事全般の弱さへとつながっているんでしょうね。きっと。
まあその分、他のところで何か得をしているに違いない、例えば街中でキレイな女性とすれ違う確率が3割増しになっているとか、と自分を納得させていますけど。

ギャンブルは苦手なのですが、賭け事の場の雰囲気は好きです。
競馬場、パチンコ屋、雀荘、広い意味ではゲームセンターも入りますかね。喧噪の中でみんなが好き勝ってやっているのがいい。
普段は組織や人付き合いの中で窮屈な思いをしていても、博打は自分一人の勝負ですからね。そういう自分一人で何かを背負った状態の人間を見るのは好きです。

自分が子ども時代を過ごした地域には、オートレース場がありました。
18歳未満は入場できないのですが、小学生の時、悪ガキの友達につれられて何度か入ったことがあります。入場料を払って、「お父さんが中にいます」って言ってゲートを抜けていくんです。
そんな浅知恵、係のおじさんにはバレていたと思うんですが、子どもだけで入場してるんじゃないよという言い分だけ立てれば、止められることはありませんでした。時代ですね。
夏はナイターのレースが開催されていたので、夕方に集まって、オートレース見物に行きました。もちろん車券は買えないので、何だかいかがわしい大人の世界を見物するだけです。場内の中には食べ物の屋台が並んでいたりしたので、ちょっとした縁日気分です。夏休みなので、小さな子を連れてくるおじさん達もいますから、りんご飴や綿菓子くらいは売っていた気がします。
野球場でもラグビー場でもいいんですが、大きなスタジアムって非日常的な解放感があって興奮しますよね。男の子の憧れの場所って感じじゃないですか。
東京で育った子どもだったら、ドームに巨人戦を観にいったり、味スタにサッカーを観にいったりして、その感覚を体験するのでしょうけど、地方で育ったぼくらにはそれが公営ギャンブル場、オートレース場だったんです。
楕円形のサーキット。レースバイクから響く雷のようなエンジン音。吸い殻と飲料カップの散らかる観覧席。予想屋のおじさんの潰れたダミ声。見上げると空はいつの間にか薄紫色に染まり、取り囲む照明塔から降り注ぐ水銀灯の硬質な光。田舎の悪ガキたちは小さな胸にひとつの記念碑を立ててその光景を眺めていたのです。

成人してからも、何度か友達に連れられて行きました。勘で車券を買ってみたんですが、最終レースまで張ってみても全然あたりませんでした。
そもそもの元手もないので、五千円くらいの損で済みましたけど、こういうことを経験する度に、やっぱり自分はギャンブルに向いていないという思いが積み重なっていきます。
余談ですが、オートレース場ができた当初は、のめり込んだ農家のおじさん達が、家や畑を全て売ってしまい、最終的には近所の雑木林で何人も首をくくってしまったそうです。ひえぇ。
そんな運命を歩むくらいならギャンブルが弱い方がいいですね。おそろしや。




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