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【小説】抱擁

「お母さん、帰って来るの、絶対に帰って来るから。」

その子はそう言って、駅で待っていた、その駅は乗降客の少ない駅で、毎日使っている人はその子を見ない日は無かった。

ある日終電で帰ってきた時にもその子は居て、「もう電車は来ないよ。」と教えると、がっかりした顔で帰ろうとする。

「ちょっと待って、もう暗いから送っていくよ。」声を掛けると「知らない人に付いて行っちゃいけないの。」と言ってくる。

まあそうか確かにな、「じゃあ、ゆっくり後ろから付いてゆくよ、暗くて危ないから。」

彼女はこくんと頷くと、暗い道を歩き出す、俺は程よい距離を取りながら、その子が家に入るのを見届けた。

「遅いじゃないか、何処に言っていたんだ。」家から怒声が聞こえる、可哀そうに、何も言えないみたいだ。

次の日には居ないと思っていたら、次の日もその次の日も居た、毎日会うから自然と言葉を交わす。

「お母さん、待ってるの?」と聞いてみる。

「うん、お母さん絶対に帰って来るから、待ってって言ってたの。」この子はまだ小学校に入っていない位だ、何かの都合で母親が出て行ったのかもしれない。

何だかハチ公みたいだな、そんな気持ちを頭に沈めながら、毎日送っていくようになった。

「毎日ここに来なくても、家で待って居たらいいのに。」と言ったことが有る。

それには無言で何も帰って来なかった、触れられたくないのかな、そう思ってそれ以降は聞かなかった。



何年か駅に居たあの子は、小学校に行ったのか、引っ越したのか居なくなってしまった。

待っても来ないのに、いつまでも駅に居ても仕方が無いからな、人間はハチ公じゃないんだから。

小学校に行くと大変だからな、ここで待っている時間は無いのだろうなと考えていた。


「お兄さん、久しぶりです。」帰りの駅に着くと、ちょっと大人になったあの子が居た。

「あれ、この頃駅には居ないよね。」と返す。

「あれからね、違うところに引っ越したの、でも今日はこっちに用があって帰ってきたの。」

「お母さんと一緒に居るの?」と聞く。

「ううん、違う、あの時からお母さんと会ってないの。」可哀そうだがそれも人生なのかと思った。

「今日も遅いけど大丈夫?」と聞くと、「お兄さんが後ろ付いてくれるんでしょ。」と茶目っ気たっぶりに言ってくる。

其の後は無言で歩き出す、暗くなった道は何も指示してくれない、数年前に歩いていた道を、後ろから歩いていく。

「お兄さんごめんね。」と言ってくるその子は、何時の間にか目に涙をためていた。

「何が?」聞き返す。

「本当はお母さんが帰って来ないのは解ってたの、でも誰かに待ってても良いんだって言って欲しかったの。」涙が気持ちの様にあふれている。

俺は初めてその子に近づいて抱きしめた。

「辛かったね。」

人間は誰かに抱きしめて欲しい時がある、それがだれであっても。


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