「役者」が「役を演じる」ということ
あまりに昔の話で、もう出典等々まったくわからないのですが、二宮和也さんの「演技論」を題材に書きます。記憶が定かでないので、ご存じの方いらっしゃいましたら教えていただけたら嬉しいです。大きく間違っていたらごめんなさい。
彼がまだまだ若い、おそらく10代の頃だったと思う、こんなふうに話していました。
「自分が出ていない部分の台本は読まない。だってその役が知らないはずのことを、演じる自分が知っているのはおかしいから」
当時の私は、なるほど確かに、と思った。
それからしばらく経って、むしろほんの数年前くらいかも、あるインタビューで二宮さんはこう語っていた。
「自分の出ているところしか読まないでいたら、『台本を全部読みこんだうえでどう演じるか考えなきゃいけない、役者なんだから』と先輩に言われた」
最近、「俳優」と「役者」という言葉の使い分けについて考える機会があって、彼の演技論を思い出しました。
「役者」とは「役を演じる者」つまり「役柄を演じる者」なんだと思っていた。だけど、ここで言う「役」って、役柄であり役割でもあるんだな、と。
私自身は学校の出し物程度の演技経験しかなく、役者を志しているわけでもない、ただの観劇趣味の人なので、演技の手法云々を語るつもりはありませんし、そんな立場でもないけれど。
「演じる役柄が知らないことは、役者である自分も知らなくていい」。それはそれでおもしろい考え方だなと今でも思います。そうして「役者自身のリアリティが、役柄に反映される」わけで。
ただ、作品の全体像を考えたら、見る人の立場になってみたら、少し違う考え方もできるのかもしれない。
役者には、一つの作品をつくり上げるために、全体像から逆算されて与えられた「役割」があって、役者はそれを自身の身体を使ってまっとうする。
そのうえで、役が物語のために動かされているコマに成り下がってしまわないように、「役柄」に命を吹き込まないといけない。それが役者さんの技術なんだなあ、と。
余談ですが、私が映像作品より舞台にのめりこんでいる理由の一つに、(基本的に)役者さん全員が作品の全体像を共有したうえで演じていること、があります。
映像作品に出演した人のコメントを見ていると「だれだれさんとは一度も顔を合わせていない」とか「ここのシーン、こうやって撮ってたって初めて知った」とか「試写で見たらあのシーンがカットされてた」とか。
それはそれで作品づくりのおもしろさなんだろうと思うけど、(基本的に)過程の全部を共有して、目指す一つの形を共有して、カンパニーが一丸となってつくりあげてる、舞台というのは実にいいなあと思うのです。
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