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「アートを書く・文化を編む」(上村博・大辻都著)を読んで

「現代に通用するアーティストになりたい」

私は人生の半ば⁈も過ぎた今になって、初めてこう思いました。
美術系の大学も出たし、創作も細々とは続けていました。でもそれは「作るのが好き」「できたら評価されたい」といった、曖昧な気持ちでやっていたこと。自分の作るものに自分でモヤモヤしたものを感じていたのは、当然かもしれません。

ある日ふと気付きました。SNSに流れてくるさまざまなアート作品を見るにつけ、自分がいいと思ったものが海外の作品が多いこと。名前から、あ、日本の人だ、と思っても、海外を拠点にしている人だったり。何が違うんだろう?もしかして、海外の美術教育って、何か日本と違うんだろうか?

知りたい。
知れば、自分もそんな作品を作ることができるかもしれない。
どうしたらいいのだろう、今から大学に入りなおす?留学する?(20代のときにしなかったくせに、もう遅いよ、無駄だよ、才能がなかったんだよ、お金はどうする、生活は?という怒涛のような心の声がする)

いや待って。
前向きになろう。
逆に、今だからできることがある。今あるものを数えよう。例えば、若い人のように子育ての心配をしなくていい(もう子供たちは成人した)。若くはないけど、平均寿命まで生きるとしたらあと数十年ある。大きいことでなくても、今できることをしよう。(それに文句はないでしょう?と心の声に言う)(そうだね、前向き上等!)
まずはネットだ。あきらめるな。美術、海外、教育と入力するところからスタートする。私の第一歩。

膨大な情報の波を泳ぎ続けた後、萩野真輝さんのブログにたどり着きました。
そこにはアメリカやドイツの美術大学で学んだこと、現代美術についてなど、私にとって示唆に富んだ内容が溢れていました。
学ぶことはたくさんあるけれど、とても根本的なことで衝撃だったことがひとつあります。それは現代美術をするなら、たくさん本を読んで勉強すること、自分の作品を論理的に説明できることが必要というのです。
当たり前と笑うなら笑って下さい。私はそれらは制作には必要ないと思っていたのです。
溢れる才能で、感性にまかせて作ることが創作で、そういう能力は自分は劣っていると思っていました。
アート作品を作ることは研究すること、勉強し、論理的思考を用いて、自分がいいと思えるような作品を作ること。それが現代アートの創作ならば、自分は改めて今からやってみたい。そう強く思ったのです。

西洋の理論が全てであるとは考えてはいません。自分の作りたいものに、必要なものを身に付けたいのです。

前置きが長すぎましたが、そういう次第で9ヶ月くらい前から、美術関連の本を読んで勉強しています。
これは萩野さんが紹介されていた本の一冊です。
自分の作品について説明をする際、どのように書けばよいかの参考になるかと思い読み始めました。
とても薄い本(あとがき含めて81ページ)で、それが3部に分かれていて、1・2部と3部で著者が違います。3部は「書かれたもの」をアートライティングとして見ていくという内容で、それはそれで面白い内容でしたが、私が読みたかったものとはやや違います。そうすると1・2部の51ページしかないわけですが、これがとても読み応えありました。
そもそも導入にも書かれているとおり、「アートライティングの書き方」ではなく「アートライティングとは何か」ということが書かれています。なので直接的に「こう書けば正解ですよ」が分かるわけではありません。

けれども冒頭P.8〜11「記すこと、作るこっと」を読んだ段階で、思考することとその記述とはどのようにあるべきかを、目の当たりにしたように思いました。自分が曖昧に捉えてきたものが、整理されて説明してもらえる心地よさ。それはそのまま、後の文章に出てくる「アートライティングとは(中略)…有意義な経験を作り上げるもの」を体感します。
感じていることを、どのように解きほぐし、構成して文章化するか。それは訓練して、鍛えることのできるちからなのだから、訓練して、鍛えなければいけません。

例えば先日のこと。
私も関係していた、あるギャラリーの企画展に関して、「作品解説を出す・出さない」ことについて意見のやりとりがありました。私はSNSで行われるやりとりに、当事者の1人として意見を言うべきかと悩みつつ、沈黙してしまいました。自分の考えがまとまっていないからです。
作品解説について、この本の中にはこのような記述があります。


「新しい芸術的な価値は、制作者とその周辺以外にはなかなかすぐに理解されるものではありません。文化的な価値を世代や地域を超えて伝達し共有するためには、ただ経験に埋没するだけでなく、ことばによって経験を方向づける必要があります。それこそがアートライティングの役割です。」(P.30 3行目〜)


それを読んだ後にまとめてみた。
〈見る人を誘導するのではなく、方向を示唆するような解説は、より鑑賞者の体験を広げるので、解説はあった方がいいという考えです。しかし解説を出さないという企画を否定はしませんし、合わないと思う人は企画に参加しなければよいと思います。〉
自分の考えを、相手に伝えられる言葉が書けたように思います。
書かれたものを読むとなるほどと思い、自分の思いと合致しているものを取捨選択することは比較的簡単です。そういうものを自分の中にたくさん取り込んでおくことが必要ですね。
私にとって取り込むことがたくさんあった一冊でした。

文章を書くことで、自分の思考の浅さや知識のなさが露わになってきます。
それはとても怖いし恥ずかしいことですが、恐る恐る自分と向き合っていきます。

それに、年齢を経てからチャレンジすることが決していけないことでも、絶対にムリということでもないってことを見せたい。「こんなにあかん人でもがんばってるやん」と、誰かに勇気を与えられたらいいと思っています。

(あかん…Noteの使い方がまだよく分からへん…みんな目次とか作ってるけどどうやるん?ちょっとずつがんばろ…)


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