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【観劇感想】「天守物語」を観て

少年社中さんの舞台「天守物語」。こちらは、泉鏡花の「天守物語」を原作に毛利さんが脚色し、演出した作品。私が感じたのは『生きる』ことへのメッセージ。


ここから先は、ネタバレと私の個人的感想を連ねていきます。

初見

例の如く、鈴木勝吾さんの出演作品を漁っている私です。購入して初めてみたのは2021/10/23あたりだと思われます。

そして、初見の感想。

お父様?

声、高!!

えっ

あっ

腕が?

えっ。。。

冒頭5分かそこらで、わりとショッキングだった。意味わからん殿様!よくわからん子供みたいなやつ!なんだか知らないけど、あっという間に、勝吾さん演じる死宝丸が危機に陥った……と。

そこから、最後まで観て、美しく、哀しく、虚しく、しかし生きるといったようなメッセージ感を感じつつ、漠然とした気持ちでいっぱいになった。楽しかった、が、あまりにも切ない気がして、苦しい気持ち……。これは、しっかり考えたいとなったのです。

当時、勝吾さんの出演作を爆買していたので、(今も暇を見つけては買っている)中々感想をかけずに今日に至ってしまったわけですが、念願かなって?少しずつ感想をしたためたいと思っています。

泉鏡花の「天守物語」

何から書くべきか、悩みつつ。まずは泉鏡花の「天守物語」についてさらっと。

青空文庫↑

泉鏡花の他の作品を読んだことが無い私。そして、明治時代の言葉遣い等を理解する事は難しく雰囲気なので許して欲しい。

まず、前提として天守には、殿様が居座っているイメージを勝手に持っていたのであるが、どうやら違うらしい。(有事以外はほぼほぼお飾りだった?詳しくない上に、しっかり参考文献引っ張ってないので話半分で!)

そのような天守に棲み着いている富姫。高麗べりの畳を利用されているような記載があり、格式高く作られている建物のよう。そこに、空を渡って遊びに来た亀姫。富姫と亀姫の戯れが人間から観るとどこか不思議で、どこか恐ろしい。そして、亀姫が富姫に渡したお土産をきっかけに、話が進んでゆき、(色々あって)最終的には鷹匠と富姫の恋の物語かと思う。

「天守物語」は繊細で美しい印象。舞台の季節は秋であるというのもまたどこか物哀しい気持ちになる。個人的に秋は終わりに向かう印象があるせいかもしれない。(冬の季節は死を意味することが多い感覚。)

その中でも、私にとって、桃六のこの言葉が印象的だった。

世は戦でも、胡蝶が舞う、撫子も桔梗も咲くぞ。――馬鹿めが。(呵々からからと笑う)ここに獅子がいる。お祭礼まつりだと思って騒げ。(鑿を当てつつ)槍、刀、弓矢、鉄砲、城の奴等やつら。(引用:https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3065_24401.html、2022/03/02閲覧)


「天守物語」

まずは、セットが好きで!

舞台を見ていて思うのですが、可動式のセットを使わずとも、場面が変わっていることが分かるのすごくないですか?

(場面転換で暗転している時間って、意味があればよいのですが、ただのセットの移動時間だと苦手で、、、そういうストレスもないのが素敵だなって思ってます。)

あと、音楽!

太鼓のリズムが、前へ進む感じが出ていてたまらない。全体が踊る?ところの迫力といいますか、そこで同じ動きをしている人と違う動きをしている人の差といいますか、観てて楽しいっとなりました!もはや…走馬灯ではないですけど、なんか生きてたヒトタチ…と思うと、懐古するようで、感動的というのか胸が掴まれる熱いシーンだなと思うのでした。

あと、原作と異なる設定もまた、面白い!鷹の立ち位置といいますか、アヤカシが人を殺すと鳥の設定が加わったことによる因縁といいますか……面白くないですか?!

そして、死宝丸登場!死宝丸や、何故君は死宝丸という名前なんだっ……と、思いつつ、原作には存在しないオリキャラ。良きポジションですよねぇ!人間代表!


ざっとした感想は、

人間は、自分より力を持ったものを畏敬し、気づく畏敬は畏怖にかわり、堪えきれなくなると破壊しようとする。歴史はそう繰り返されたのかもしれない……

という思いと、ここでは鷹は自然の代表として描かれているのでは??と勝手に思っているのですけど、

自然は誰のものか?人間が好き勝手して良いのか?それぞれの自然だって本来の輝き方があるはずなのに?ということを問われている気もする。

(その鷹も元はアヤカシで、、、自然に還ったのか……?)

また、

”生きる”というのは、どういう状態の事をさすのかを問われている気もしている。

”生きることは、奇跡”

初演公演当時は別の意味合いもあっただろうが、今現在の世界情勢や感染症をみても

”生きることは、奇跡”

なのかもしれないと思った。

それまで、生死を意識することは、あるけれど、今の私にとってまだそれは自己選択の生死であって、生きていることは当たり前の様にも感じるほど、変わらぬ明日にうんざりする日々をおくっていた。その昔、意識を失って、記憶が欠けた事もあるのに、ありがたみを忘れてしまった自分自身にもなんとも言えない気持ちになる……時の経過はなんとも薄れれるものが……。 でも、そういうことも含めて、あらためて考えることができるのが良いのかも……!と思っておきます!笑

あと、平常時と異なることあれば苦しくなり、気づけば憎むべき相手を生み出しぶつけようとする。原因を探って、本当に根本原因だったりすれば良いのかもしれないですが……、都合の良い敵でも問題ない感じが……。そして、同士討ちを始めることもある。手を取り合う為に必要なものは、愛か、志か。変わりゆくものの中で、変わらぬもの。ニンゲンがどうなろうと関係なく在り続けるもの。

色々考えてしまうなぁと。

私の乏しい教養の中で、「月日は百代の過客にて……」から始まる奥の細道の「平泉」の風景を思い出して、授業で学んだときもなんだか、虚しい思いになったのだが、より深く感じるようになったのかもしれないと懐古した。

でもでも! まずは、

富姫

♪通りゃんせ通りゃんせ〜

が耳から離れない。

富姫の美しさたるや……。白い手や指先が衣装から映える。高貴な衣装を身に纏う美しい女性がいるということが、場面としても美しくてたまらない。そして、舞台の天守閣の造りどこか寂寥感漂う気もするようで、富姫がより妖艶に見える気もする。

どこか寂しい雰囲気を漂わせた場所で、言い争う富姫と童子。富姫も富姫で、図書之助父(かじのすけ?)に心を砕いてしまわれた。傍から見れば、童子と同じことを富姫に伝えるだろう。童子の言葉が届かぬ様は、恋の病か。アヤカシの中でも、上位であろうに、人間に対する衝動にかられてゆくさまはどこか愛おしさと共に滑稽にも見える。(という私も人間だが……笑)

(上位の)アヤカシとしての立場と、自分の中で湧き出てしまった気持ちとで、感情が入り乱れていく姿の美しさと切なさと、、、。必見ですよ……。

身体能力の高さも相まって?、空を舞うことのできる鷹が、居るのですよ。なんと、表現するのがいいのやらですが、美しさと優しさと切なさと……。鷹、想って、想って、そこに居るのに、届かず叶わず切ない……。

死宝丸

死宝丸の役どころもまた面白い。

これは、構成面の感想なのかもしれないけど、個人的に、死宝丸は観客が一番親身に感じやすい役だったのではないかなと思う。人間代表?

人外や計り知れないものに対して感じる恐怖心、害を為すと感じれば根絶やしにしたくなる心だったり、狂っているように見える殿様に膝を折ることに対する疑問だったり、酷いと思ってしまうようなことを止めないことについてだったり。。。そういったものが蔓延っているあの世界の中で、それが変だ。おかしいと言えるのは死宝丸だけだったように感じるからだ。

死宝丸は、童子が図書之助父を殺してしまう姿を、見てしまう。超個人的な推定年齢でしかないが、10歳にも届かない子供だったのではないかと勝手に(私の勝手な想像!!)思っている。母を喪い、父をも喪った原因を全てアヤカシのせいだと思い込むには、十分だったのだろう。突如降る災いに対して、どうして、”もしかしたらアヤカシのせいではないかもしれない”なんて思うことができるだろうか。

死宝丸の「父ちゃん」と叫ぶ声に驚き、悲痛な様に悲しくなった。お父さんがいなくなってしまったら、お兄ちゃんしかいないもんね。父、母を慕っていたのだろうな。。。

自分が信じる事を述べ(アヤカシを倒す)、世界を知らなかった死宝丸は腕を切られ(亀姫のせいでもあると思う)、死宝丸にとって意味のわからない仕打ちを受け続ける。助けてくれると思っていた兄も殿様の前では止めに入ることもしてくれず、弄ばれるように命がすり減っていくことを感じただろう。

そして盗賊まがいのことをしていたときよりも、奇しくも「生きること」について生々しく感じ取ったのだろう。

”どうせ死ぬ”という、死への恐怖を感じてから、生きているうちに何かを為したいと願うその姿に、どこか弱いゆえの強さも感じる。

殿様と子供(琢郎?)

死宝丸を切ったのは、亀姫から受けた呪いのせいだろうか。とは何度も思うのです。

地震の折、人が生き生きとしている様を見て感動したのであろう殿様。

孤児となっていた子供を拾う程に、情といいますか、’生’というものに対しての慈悲というのか、生きていくことに対して厳しさもあれど、命の輝きを愛おしく思っていたのだと思うのですよ。

殿様の狂う前の言葉が印象的で、、、

「いずれかの感情に突き動かされ生きるのが人間だ)

「人間は極限の中でこそ生を実感できる」

「多少の困難よりも、生を感じるのは、生死の境がより近づいたときなのかもしれない。」

といったようなことを言っているのですが、たしかにそうかもと思ってしまう。

亀姫後は、恐怖政治に近い形になってますが……。それもまぁ、恐怖政治という、殿様による殿様が作った恐怖で、人々は殺されるかもしれないという死を感じ、殺されないようにしようという生を意識する。。。平和であることは、生を意識しないのか?と言ったら違うと思うけど、死を意識したときに、今は生きているのか。。。難しい。

そして、地震から16年後が、この舞台の基本軸の時代だと思うのですよ。ということは、地震のとき赤ちゃんだった子供(琢郎?)は16歳辺りだと思われるのですが、それにしては幼い。殿様にどのように育てられたのだろう……。(拾ったあの赤ちゃんと、首輪繋いで一緒にいる人って同一人物ではないのですかね?!???勝手に、同一だと思ってます。。。)

どちにしろ子供が喋るとき2語しか使わないのが(2語文?)ほんと、歳の割に未熟で、、、という解釈してますが、、、

それでも、愛というか、子供にとって殿様は大切にすべき存在だと、しっかり認知されていたのだなと思うと、誰かにとっての敵も、誰かにとっての愛した存在だなとあらためて思いますね。。。

殿様が死んだときに、2語文から少し成長するのもまた、切ない。

桃六

桃六、、、桃六が乱れてるがゆえに世が乱れているのでは。。。

みたくないが故に、深酒しまくっているのか。

舞台&勝吾さん&死宝丸に思いを馳せて?


まずは、衣装が変わらずとも、16年前と16年後なところ!

最近、観劇を始めたばっかりのド素人です。

舞台というのか演劇というのか芝居というのかよくわからないですけど、物理的に目に見えるものと、芝居を通して目にうつるものって違くないですか?

私には、違うようにみえて(伝わるかわからないですが……)、なんかセリフが乗らずとも訴えかけてくるなにかってあるなって、感じているこの頃です。

ほぼほぼ娯楽はラノベみたいな人間だったので(というのはいいわけです(笑))、動きとか光とか音とか…動的に訴えてくるものをどう受け取ればいいのかわからないので雰囲気だけで感じ取ってるのですが、情報量多くてショートするのが常のこと。という私のことはどうでも、良いのですけど。

いるじゃないですかっ!

そこに、父を喪う瞬間を見てしまった小さな子供が!!

そして、16年経ってちょっくらひねくれた青年が!

観劇?舞台??って楽しいなーーーっって思う瞬間です!

映像だったら、同じシーンを再現するのに、子役が出るだろうし、アニメとかだったら絵を変えるだろうし!小説だったら、記述されている。そんな中で、舞台の場合は同じ人が演じることがある!そして、何故だかそう見える!(摩訶不思議!(技術ですよね。本当に、素晴らしい技術))

ここら辺がめちゃくちゃ楽しいのです。

声という武器も巧みに使われて……悲痛な叫びに心を痛めつつも、すごい……でいっぱいです〜!

父ちゃん呼ぶ声音がなんかもう切り替わるのが、たまらない。


生と死!

切られたとき、痛そう。(其処?って感じかもです笑)

死宝丸。わりと好き勝手に生きてきただろうに、突如放り込まれる恐怖の世界。

「気が触れてまで生きたいと思わない」といったときから、「死ぬ……?死にたくない」までの流れが、、好き……。です。

「そんなことをしてまで生きたくない、死にたくない、生きるためにどうにか、生地獄、生きている、死にそう、死にたくない、どうせ死ぬなら成し遂げる」までの流れもたぶん、お話的にも重要だと思うのですよ。

死を目の前に感じて、動揺と生への執着を知っていく死宝丸。。。もう観てて情緒不安定になるんじゃないかと思うぐらいでした。

行動ひとつひとつが、直感的に選び取った本望といいますか、ギリギリまで追い詰められたときの選択といいますか、瞬時に、起こそうとする行動や、心持ちみたいなものが変わっていくようにみるのです。

極限状態になったときの、生きることへの本能を観た気がする…といいますか。なりふり構わなくなる瞬間が、ふつふつやってきては、思い通りにならなかったり、今の状況を最大限に利用したり。人間は弱いかもしれないけど、それ故か、加減というものも無くなったとき強いかもしれないと思うのでした。

といいますか、私にはそう見えたといいますか、取り繕うことなく、立ち向っていくような姿がたまらなかったです……。


などと、とりとめなく?ダラダラ書いて

結局まとまらないまま今に至るのですが、

誰の立ち位置でも分かる……となってしまって

解決するのは難しいなと思ったのでした。


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