咎なくて、、赤穂浪士

近年、時代劇の放映が減ってきました。
子供の頃、父と一緒にテレビの前に座り、午後8時45分の終盤に桜吹雪や印籠がでてきて、毎度であるが「よしっ!悪は滅びて善が勝つ!」勧善懲悪、安心の結末を二人で喜んで観ていました。
その時代劇のマスターピースといえば断然「忠臣蔵」ではないでしょうか!(私の主観(笑))
テレビでも何度もスペシャル枠で放映されました。特に年末年始のお正月番組での放映が多かったように思えます。

悲劇の浅野内匠頭は当時の若手イケメン俳優で、悪役の吉良上野介は品のいいけれど意地悪そうなおじいさん俳優。主役ともいえる大石内蔵助はやはりイケメン俳優が固めていました。
最後の雪降る夜に、浅野内匠頭を切腹に追い込んだ吉良上野介の屋敷に討ち入りしたものの、本人は隠れて見付からず。夜が明けてしまう、その前に吉良を討たなければ、、、赤穂浪士四七士らは血眼になって探します。観ている私もハラハラ。

やっと蔵に隠れている吉良を大石内蔵助の前に引き摺り出し、真っ白な雪の上で、殿の仇!と首をはねるのです。

まとめ役の大石内蔵助の晴れやかな顔がアップになり、何故か私も嬉しくなって、お雑煮をねだる、というお正月が何度かありました。

「忠臣蔵」は、演劇の題目で、歴史的にいえば『赤穂藩討入事件』。
江戸元禄時代、徳川綱吉の治世、赤穂藩主浅野内匠頭が、饗応接待役中に指南役吉良上野介に対し、刀を抜いてはいけないとされる殿中松の廊下にて斬りつけたことから御家断絶となり、赤穂藩は、再興を要望するも叶わず、大石内蔵助を中心に四十七士が、吉良上野介宅に討ち入り、藩主墓前に首級を捧げ、切腹となるという事件。
端折っているので詳細は省いています。

この赤穂浪士討ち入り事件を元につくられたのが「忠臣蔵」です。

事件後、この事件は「忠臣蔵」として沢山の歌舞伎、人形浄瑠璃に取り入れられ演じられました。

ですから脚色もあります。
私達が知っているストーリー、例えば浅野内匠頭は吉良上野介に嫌がらせを受けた。
貢物を贈ったら田舎大名とからかわれた。
吉良上野介から嘘の手解きを受けた。堀部安兵衛の戦い、等等。
忠臣蔵を盛り上げるためにつくられたストーリーです。史実に基づいたものもあるでしょうが、全てではありません。

それに忠臣蔵というタイトル、これも正しくは「仮名手本忠臣蔵」です。

仮名手本”とは、読んで字の如く、仮名の手本、つまり当時のいろは歌をさします。いろはにほへとから始まる手習いの手本です。

下記にいろは歌を示します。
いろはにほへと
ちにぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

このいろはにほへと(いろは歌)、右端の字(沓)を読むと
とかなくてしす」→「咎なくて死す」
つまり無実であるにも関わらず死すとなります!


無実という言葉が、隠されているのです!!

赤穂浪士の討ち入りは、
武家諸法度では喧嘩両成敗を定めているにも関わらず、松の廊下での浅野内匠頭の刃傷沙汰の処罰では、浅野内匠頭のみを切腹とし、高家筆頭吉良上野介には何もお咎めも無かったことに浪士たちの不満が高まりました。

高家筆頭、今なら高級官僚、
時代が変わっても同じことがあって、悔しいです。

それまで昼行灯と陰口を叩かれるほど温厚無能(笑)な浅野家家老の大石内蔵助は、幕府のこの片手落ちの処分に抗議する為に、赤穂浪士47士を引き連れ、辛酸舐めつくして、ようやく吉良上野介を討ち果はたします。

討ち入り後、大石らは〈幕府は主君に違法な処分を下したが、我々は法を遵守する〉と無言の抗議をしたのでしょうか。幕府に自分たちの討入後の沙汰を委せます。

勝手に吉良上野介を討ち取ったのだから本来ならば斬首刑となりますが、世論は赤穂浪士へ称賛の嵐。これは民衆のみならず一部大名も含んでいました。
それに、元々の起こりは、刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭に今で言う裁判もせずに、その日のうちに切腹を申し付けた幕府の不始末。
さあてと困った幕府は二か月もの協議を経て、彼等を斬首ではなく名誉ある切腹の沙汰を下します。


忠臣蔵を、民衆が歌舞伎等の演目とする際に「忠臣蔵」ではなく「仮名手本忠臣蔵」と付けたのは、暴政への強い反発を表していたと思います。



大石内蔵助は、切腹の際「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」と辞世の句を読み上げました。

意味は、「仇討ちを終えた四十七士は主君とともに阿弥陀如来の待つ極楽へ旅立ちます。」でしょうか。

赤穂浪士も四十七人、いろはにほへとも四十七文字、謎めいてませんか。


読んでくださり、ありがとうございます。今後とも宜しくお願いします。

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