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安心安全と自由が両立する共同体をつくりたい

随分前にTwitterで出回っていたこのプレゼン資料を久しぶりに眺めていたのだけど、この図を見て改めて思ったことがある。

※20代・30代の若手官僚30名で構成された次官・若手プロジェクト「不安な個人、立ちすくむ国家」http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

わたしは、「権威主義的なもの」があんまり好きじゃない。家長制度も好きじゃないし、年功序列も好きじゃない。一方的な物言いも好きじゃなければ、意味のわからない労働も好きじゃない。権威により追い詰められて心を病む人をたくさん見てきたから。

だけど今、権威でなく個人の力が強まっているのもやるせなさを感じている。変化しなければいけない、成長しなければいけない。「自由に発信できるし、低コストで人もお金も集まる時代なのに、なんであんたは行動しないの?」と詰め寄る。自由と責任に追い詰められて心を病む人も現れた。

ある20代後半の友人に「決められたルートを歩いて行きたかった」と言われたことがある。ある高校生から「情報はこんなにいらない。インターネットなんていらなかった」と言われたことがある。

わたしたちは権威社会のなかで安心安全を得ていたことに気づく。安心安全と自由はトレードオフだったんだ。

"今、僕らは、所属しているコミュニティを失いつつある。誰も僕らの生き方について、指図する人はいない。圧倒的な自由だ。しかし、ずっと欲しがっていた自由を手にいれて、気がついたら安全・安心を失っていた。その二つがトレードオフの関係にあることを、理解している人は少なかった。孤独の中で得る自由と引き換えに安全・安心を失った人たちは、不安の闇に突き落とされる。"
「WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE.」佐渡島庸平

そして、人権と民主主義を土台とする欧米型投融資ではなく、中国型支援の拡大が進む様子や、権利を放棄しプライバシーを総動員して生産性を上げまくる中国の様子を見て、慎さんは「民主主義と自由権はそろそろ終わるかもしれない」と言う。

はたして自由権や民主主義を絶対に守ろうとする人がどれくらいいるのだろう。ビッグブラザーがいたとしても、その下での安心・安全かつ便利で快適な生活が提供されるのだとしたら、少なくない人が個人のプライバシーと自由を喜んで差し出すのではないだろうか。
「民主主義と自由権はそろそろ終わるかもしれない」
※ビッグブラザーとは、ジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」に出てくる独裁者のことなのですが、国民をめっちゃ監視しようとする政府・政治家のことをそう呼んだりします。

自分の頭で考えたい、と思う自分がいる。自分の権利や、大切にしていることを手放して誰かの頭の中に委ねたくないと思う。一方で、大量の情報のなかで「考えたくないなあ」と思う自分もいる。誰かの言葉に身を預けてしまえたら楽なのにと思う。そして今目の前にある中国企業の躍進は、「自分の自由を手放したほうが生産性が高い」ということを如実に示している。わたしは今年7月に24時間だけ訪問した上海に、ただひたすら圧倒された。なんとも言えぬ、「数による圧倒」がそこにあった。

自由でありかつ安心安全の場をつくりたい

でも自由を手放したくない。わたしは、自由でありかつ安心安全の場をつくりたい。そういう人の集まりをつくりたい。

動けるようになるまでの安心安全の場がつくられて、動けるようになったら自由を保ちながら世界の荒波を超えていく。でも疲れたら、やっぱり安心安全の場に戻れるようにする。そういう「充電」できる場と、「がんばれる」場の両方が存在して、それで生きていける社会をつくりたい。旧体制を維持もしないし、現状のまま個人に責任を負わせないようにしたい。そのためにはどうしたらいいのかわからなくて暗中模索のなか動いているけど、わたしはそういう10-20人くらいの共同体を各所につくっていって、一人の人が生きていける社会をつくりたい。

最後に昔自分で書いた文章を引用する。

(以下引用)

「やる」に対する敷居が下がることにより「やれない」ひとは「やらない」ひとだ、と評している言説に出会い、ちょっと危機感を感じる。「こんななんでも挑戦できる社会になってくのに、動かないあんたアホなの?」という言説になってしまうのは、なんか、ちょっと、心配になる。

「やる」には、そこに至るまでの「溜め」がいる。安心できるところとか、居心地のいい場所とか、自分の存在を肯定してくれる人とか、そういった土台となるものをひとつひとつ「溜め」ていって充電がいっぱいになると、じゃあやってみようとか、これやってみたいとか、そういう気持ちになるんだと思う。

やってみよう、に対する敷居が下がっても。
やってみように至るまでの敷居が高いなら、
それはまだ社会が成熟していない証拠だ。

わたしは、D×Pで、「やってみよう」に至るまでの敷居も、「やってみよう」に対する敷居も、両方下げたいと思う。どちらか一方じゃなく、川の流れのように、一気通貫させたい。そして、ひとりの個性あふれるひととして、海に漕ぎ出していけたらと、思うのだ。

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