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和訳:Magali Reus "The Everyday, Stranger" 後半

どんな類いのアートが好きか、という問いについて、私はまだ答えていない。(冷蔵庫を開けるたびに陥るような)世界から私を根本的に隔離するようなものがいい。 
しかしそれこそが私がレウスの作品を賞賛する正確なところだ。彼女はあの深い裂け目をこじ開け続けている。これはレアリズムのひとつの傾向だと言えよう。我々のように見ることの方が好ましいという立場でなく、この物質世界について自分の言葉で語ろうという試みだ。今日、それは簡単なことではないだろう。だからこそハンドメイド的な作品や手工業への興味が復権しているし、郷愁的な慣習は人間らしさが最優位であることを高らかに断言している。今日の産業的、グローバルで人知を超越した日常生活のオブジェクトは、作家や観客にわずかな救済の道を求めている。

このレアリズムの典型的なひとつの例はレウスが2015年にローマ賞を勝ち取った時の作品、'Leaves'だ。パッと見ただけだとそれは頂点から膝部が突き出し、内部機構のパーツがむき出しになったやたら大きな南京錠に見える。しかしその膝部は不完全で、沢山ある作品の中でそのオブジェクトの胴体部は何重もの層から出来ており、ひとつでは鍵だとわからなくなっている。(単位の本質としては)ひとつの鍵としてさえ全くわからない。Leavesはエントロピー論のひとつとして発動する。ある単語をただ繰り返すことはその指示対象と距離を取り、’錠’の繰り返しひとつひとつはさらに私の量を測る能力を腐らせる。その効果は親しみのある言葉を置き忘れてしまったようで、結局ただ言語を丸ごと失ったことに気づかせるのだ。

方向感覚を失わせるような景色を作るレウスの作品の一部は、その疎外感にも関わらず完璧にうまいことを言っているようにも見える。表面は鋳造物で、粉にされコーティングされ、地味な色に塗られて図式化されたそれぞれのアッセンブラージュは明らかに意図のあるデザインプロセスの結果である。
それらの親しみのある、プロフェッショナルな振る舞いはそれらを定義することができない私の無力と、私のどんな瞬間でも可能な頑固な感覚とに一致する。
2015年 ‘Leaves’ がHepworth Wakefieldに展示された時、レウスの展示の一部分として’Particle of inch’ が ‘In Place Of’ と並行して行われた。床設置の彫刻作品の一連のシリーズ ‘In Place Of’は彼女の多様で矛盾した方向に類別される可能性を一度で引き延ばすという、人の心を乱すような能力が明示された。これらの作品はあるテーマのバリエーションである。低い位置で綺麗に、几帳面にさらけ出された構造は確信的にモダニストの別荘や駐車場のマケット、台座、コーヒーテーブル、またはやたら大きな配線盤としてさえ通過することができ、その上種々雑多で逃亡者の所持品よろしく展示された。

‘In Place Of’ を観ることは分類学上のある不安に屈服することと等しい。
当の問題のオブジェクトの本質について解決してくれるほどではなさそうだが、より信頼できそうな説明が浮かび上がった。
この不確実性と冷静さの組み合わせはレウスの作品にはっきりとした心理的な輪郭を与えるものである。それは私の脳裏にジュリア・クリステヴァの’他人のセオリー’を横切らせた。ブルガリア出身のフランス人の彼女は、我々すべては様々な度合いでお互いに対して、また自分自身に対して見知らぬ他人であり、私たちは外殻を作ることによって内なる混乱を覆い隠し、平穏で自分からも周りからも見えない確実さとともに自分の中に定住することを学ぶのだと信じる。’氾濫する潮の中、貝殻が閉じこもるように。または温かい石の表情を伴わない楽しみのように—’

レウスの立体作品の中、着慣れた服に身を包んでいながら、ただの他人として誰も気づかぬところへ行く。存在論的な不安は、工業的な最終仕上げ技術の虚ろな信頼と共に提示される。現代のためのオブジェクトの肖像として。

Rosanna Mclaughlin

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