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和訳:Magali Reus "The Everyday, Stranger" 前半

by Rosanna Mclaughlin / Art Review November 2018


“なんで認めないの?私たちがクルーズ船に乗ってるって。”
妻が言った。
2018年春、私たちはサウスロンドンギャラリーで開かれたマガリ・レウスの展覧会 ”As mist, description,” の中で、ちょうど突き当たりのあたりにいた。
彼女はまた、ギャラリーの文章の注意書きにこの重要な情報がないことに憤ってもいた。
部屋の周りのアッセンブラージュの中で、沢山の身近なものの亡霊を見た。
ガスメーター、会社のロビーにあるようなインテリア、花瓶やプラモデルのパーツなど。
私がそこで見なかったのは、クルーズ船である。
”少なくともこれが船の消火ホースだっていうのは同意できるでしょ。”
私の注意は壁にあるディスペンサーから出てくる赤、白、緑のストライプの布に向けられた。
その布の端は棚の上に注意深く折りたたまれており、いかにも深刻そうな趣の二つの鉄の部品で留められていた。(これはDIYで配管をいじくるとき、外れないように気をつけないといけないような類のものだ。)

眼前にある物体を注意深く観ると、傷のないまっさらな表面と扱いにくそうな感じ、それらの妙に説明的な展示方法に気づいた。 
それは不安になる程超然としていて、まるで血の気のあるものを一切介さずにデザインソフトウェアから工場、ギャラリーへと旅して来たかのように見えた。
”むしろ公衆トイレにある使いまわせるタオルみたいだよ。”
私は返した。
確信よりも負けを認めるのことに対しての不本意から出た言葉だった。
彼女はため息をつき、憐れみと疑い深い目で私を一瞥したあと、私にとどめを刺した。
“そう..それは随分わかりやすい見方ね。”

展示を出る頃には私はあるつまらない結実と向き合っていた。それは私と妻がアート観賞に対して田舎者の観光客と同等になってしまったということだった。私たちは今、ある種の権威(という妄想)を維持するためになんでもする人々のようになっている。
道に迷った路上で、田舎の道と似たようなものだと言い張り、周りも気にせずコニュニケーションに失敗したウェイターとつまらない喧嘩をするジョンおじさんといとこのロブ、といった感じだ。なぜならトイレのハンドタオルvs消火ホースの言い合いの中で私たち両方が認めたくなかったことは、その見慣れないものが、私たちが包括的に説明しうる範囲を超えて存在しているものだということだったからだ。(その夜私はその展示のレビューをグーグルで検索し、鯨とロンドンのルーテマスターバスのインテリアであるとして自信を持って要約されたものを見つけた。無作為な情報の中から規則性や関連性を見出すことは一般的な態度だと思える。)

誰しもそのような観光客になりたくはあるまい。”As mist, description”は私が物質世界に過度の馴れ馴れしさを隠し抱いていることに気づかせた。この数週間の間、この問題を正そうとする中で、この自分の無知状態を抱擁することにし、哲学者グラハム・ハーマンを助力として頼った。
彼の2010年の著作”Towards Speculative Realism”の中で、ハーマンは人間中心主義に対して、現象に気づく傾向は主として人間に対する価値観に基づいていると主張している。代わりに、彼は考証するための自立性の存在物として、限られたツールや立場としての役割の範疇を超える一例を作った。
彼は言う。
”何かを作ることはそのものの深さを理解することを意味しない。”
ハーマンの指摘は明瞭である。
子供であるということは世界は目を閉じた時に姿を現さないことを学ばないといけないということだ。私たちもまた、人間の努力による製品は人間のコントロールや知識を超えて動くものだと学べばなるまい。
しかしこのセオリーを日々の生活に適用するのは相当難しいものがある。ある朝私がシリアルを食べるため牛乳を取ろうと冷蔵庫を開けると、私が元来私のものだと思っていた電化製品はゴムのシール、プラスチックの外装、溶接、コーティングされたスチール、他の相容れないパーツでできた集合体で、それぞれ違う実用性、素材、労働サイクルの製品であり、それぞれ言語、歴史、寿命が大いに私のものとは違うのだと思った。
私はこの深い乖離の裂け目の上で冷蔵庫のドアを閉め、代わりにバナナを選んだ。

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