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「4人の親の死ラスト③育ての父編」

こんにちは。柚木幸子です。岡山市でサロンtrueNPO法人オカヤマビューティサミットを運営しております。

今回はプライベートの話で「4人の親の死③育ての父編」を。今回でラスト。今日も投銭文章にしてみました。もしよろしければ、100円でも購入やスキをポチッで励みになりますのでお願い致します( *´艸`)

私の誕生などは前回の「4人の親の死①実父編」


「育ての母・実母編」もご覧ください。

大きな人。これが育ての父でもある伯父の印象

実父編でもふれたが、私が伯父家族の家で暮らせるようになったのはこの伯父のおかげである。そうでなければ、いわゆる養護施設に入っていた。この伯父のおかげで、私は自分の家族ではないが、家庭という空間の中で大きくなれた。本当にありがとう。

この記事はもう会うことのできない伯父にささげたい。

酔っ払い参上

伯父は、砂利船という船の船長さんだった。砂利船とはコンクリートを作ったりするために、海底から砂利を取ってくる仕事だったような気がする。船長さんなので、一度船に乗ると3日間帰ってこない。そして中3日くらい休みで船に乗る。私は伯父が大好きだったので、伯父が帰ってくるときが嬉しくて、ただいま~っと玄関開けたときに「〇〇〇〇」と声が聞こえてると、一目散に居間に。はい。酔っ払いがすでに6~7名。

「帰ってきたか?勉強頑張っとるな~」と見知らぬオジサン達が、褒めてくれる。承認欲求が満たされまくるのである(笑)もちろん、この中には父の兄姉もいて「幸子〇〇〇」と色々気にかけてくれるもんだし、相手は酒飲んでるし酔っ払いだし、まあ楽しいのだ!!そのうえ、肩たたきしたら100円とかくれるから、しっかりお相手(このころから接客スキルは上がったのかも)

そして。。。一切誰も酔って絡むとか暴れるということがなかった。「お酒=楽しむもの」として、記憶に刷り込まされ、大人になったら酔うって楽しんだろうな~と思い、48歳の今となり、絡み酒はした経験がない。結局のところ、家系的に酒飲みが多く、アルコールに強いんだと思うが・・・やっぱりお酒は楽しんで飲んだ方がよい。話がずれてきたので、戻そう・・・

幸子すぐついて来て!

ある日、伯母が電話の後こういうのだ。ついていってる間伯母はブツブツ言っている「お父さん酔っ払い過ぎて歩けんらしい。私が連れて歩くのはふ~が悪いから、あんた抱えてあげて」酔っ払い過ぎ??なんだそれ?と、伯父がバス停で待っているのが見えた「おじちゃ~~ん」駆け寄ると明らかにへべれけ、まともに歩けない。「幸子~~」と満面の笑みと同時に酒臭いにおいがプーン((+_+))お酒って飲み過ぎたらこうなるんだ。。。と思いながら、大きな伯父を一人肩を抱えて連れて帰る。伯母は5歩下がってついてきている。(今考えると自分の旦那が昼間っから酔っぱらってるの連れて帰るのはそりゃ嫌だ(笑))

こんなふうにいつもお酒大好きな伯父で陽気が大好きだったが、もちろん厳しい面もあり、しつけや人の在り方も教えてくれたのも伯父だ。

野球嫌いになった理由

食事中のことに関してはうるさかった。伯父の息子たちであるお兄ちゃんたちもよく言う(伯父が亡くなった時にもこの話題に)
特にうるさいのは食事中の端の持ち方。かろうじて私はできてた方だが、姉ができておらず、絶対端でパシッとやられるのだ。もちろん腫れるような強さではないが、食事中に怒られるのはご飯がまずくなるので、怒られないように伯父がいるときには、まず自分の箸の持ち方チェックから入る。この辺次女というものは、ずる賢い(笑)姉が怒られるのを見て直してるんだから(笑)

また、音を立てる食べ方や食べる順序などもとってもうるさかった。いわゆる△食べのこと。口に入れたまま話したり等は即「うるさい」で済まされる。お酒を飲んで騒いでいる伯父とは大違い。普段の食事中はいつも昭和のジャイアンツ・阪神全盛期時代。食事中の音はテレビの音か「おかわり・お茶」の音のみ。ほとんど話した記憶がない。おかげで私はいまだに野球が好きになれないのだ・・・

伯父の料理

伯父は船乗りなので、料理が上手かった。美味しくて作っている傍から私がつまむので、子供が食べれないくらいわざと辛い味にしたりする。それでも食べるもんだから、最後には「完敗じゃ」と食べることを許されるけど。伯父や父は料理するし、ご飯も炊けるし、魚もさばける。他料理もこなす。なので、私は男性も料理できるものだと思っていた。でも・・・この時代男の人ができることって珍しいと知る(私が結婚してた時、旦那が炊飯器も使えなくてビックリした)

しかし、これには裏があった。。。生前伯母から「お父さんが私の味付けじゃ酒に合わんっていうから、酒の肴や食べたいものは自分で作ってって言ったのよ」もともと自分で料理ができる伯父なので、気に入らなかったてことなのである(笑)でも、おかげで私の酒の肴には伯父の味も入っている。おふくろの味がない分、いいことだ。

はじめて殴られた日

今では何であんなこと言ったのだろう…時は14歳。家出を繰り返し反抗期も真っただ中。何かを求めてあがいてた頃。本当に15の夜が似合う時代だ。先輩の車に乗り家にも帰らない日々を過ごしていた。それこそ〇物には手を出さないが、昭和の人にもわかろう「積木くずし」「不良少女と呼ばれて」まっしぐら。

14歳の時、伯父の姉が亡くなった。先に述べたように私は反抗期まっしぐらで、人の死にたいしても反抗していた。本当は悲しかった(当時この姉の方とも一緒に暮らしていた)しかしお通夜・お葬式の手伝いをしようにも服装だの行動だのとお説教。そんな周りの目に居ても立っても居られなく、逃げ出した。自分が情けなかったのだ。

あんたのお姉さんが死んでも知ったことじゃねー

この言葉の瞬間、伯父は何度も私を殴った。そして私は殴られる反対の頬を何度も突き出す。あー可愛げない中学生。殴られるごとに自分が言った言葉の深さを思い知る。殴れ殴れ!と自分の放った言葉に嫌気がでて何度もいう。その時実父が障害を持った体で伯父に「兄貴、殴らんでやってくれ」と懇願する。実父は自分の娘が殴られる姿をみて、精いっぱい助けようとしてくれていた。実父が泣き伯父が泣きもうぐちゃぐちゃだった。伯父の泣く姿を見たのはこれが初めてだった。自分がちっぽけに見えた14歳の出来事(もし、今ここに伯父がいたら、心から謝りたいがもう、謝れない。ごめんなさい)

その後ここから伯父と冷戦状態が続く。。。

人を大切にした伯父

それから時は経ち、私は17歳で結婚。出産を決めた。旦那と挨拶に行ったとき「お前たちみたいに片親にはするな」と一言。許してくれたのだ。それから、その言葉にも逆らって私は一度離婚をする(ちなみに同じ人と再婚笑)その時、昼夜仕事をする私の娘を支えてくれたのは伯父夫婦だ。夜中仕事帰りにお迎えに行って、伯父は定年を迎える手前まで、時間のある時は娘を保育園に迎えに行ってくれた。伯父は本当の孫のように娘を可愛がってくれた。

その後、私は再婚といっても同じ人なので…気心は知れており、年に数回伯父宅でみんなで飲みあった。私だけ行くと〇〇君は?と聞く。伯父は話したくて仕方なかったようだ。その時の伯父は上機嫌で、酒量が進む。もう年も重ねていたので、伯母はしかめっ面だ。しかし楽しみの一つだから「今日だけね」という言葉を何度聞いたことだろう。しかし60歳を過ぎても酒量はほぼ減らない。酔うのが早くなっただけ。

伯父はこのように人と会うのを大切にした。昔気質の人で常にだれかに寄り添い、誰かが相談に来ればずっと聞き話していた。それもそのはず。。。

伯父ちゃんは昔、〇ク〇だったんよ。

もう私が生まれる前の話だそうが、伯父もやさぐれ時代があったようで、18歳の時に初めて聞いてびっくりしたのもあるが、納得した。母がサラ金に借金して全て精算などできたのも、伯父のおかげだった。昔のツテを使って頭を下げてくれたそう。本当に人情あふれる人だった。その後、伯父本人に当時の話を聞いた。金額とか聞くと本当にこの人がいなかったらどうなってたんだ!?と思う「おまえらは女の子だから、何かあったらいけないと思ったからな。」と。

伯父の家には親戚の子ども達の集まる家だった。私から言うと、いとこの子供たちが来ているのだ。伯父の仕事仲間が来ている時とは反対に、帰った瞬間ユウツウ。そりゃそのはず、そのお守はすべて私にかかってくる。また来てんのか?と思いつつもお姉さん気取りで対応。自分もしてもらったことをこうして返すということを教えてもらっていた。それも伯父の人生を歩んだ背中を見て育ったからかもしれない。伯父は人の人生を否定したりすることの少ない人でした。罪を憎んでも人は憎まず。人は変わることができる。と言っていた。これも自分が昔の仕事から変われたことあるからだ。

経験者は語る。伯父のこういった言葉に重みがあるのも経験からだった

弱っていく伯父

時は過ぎ、今から7年前ほど伯母が亡くなった。伯父の愛する妻であり、私の伯母でもある。急なことでいきなりだった。伯母が亡くなった夜から伯父宅で伯父と一緒に寝る。亡くなった当日糸が切れたようだった。何故か?伯父の行動そして言動がすべておかしい。

「なんで寝とんなら。早う起き」伯母を病院から連れて帰り、伯母が息をしていないのに。亡くなった瞬間、傍にいたのに。伯母が亡くなったことを理解できてない。いや理解したくないのであろう。挙句の果てトイレもままならない。苦しかった。伯父はどんな時も大きく強かった。私の父が亡くなった時も、気丈だった。その伯父がまるで子どものようになっている。伯父を抱きしめた。何度もなだめ眠りについてもらう。伯父よ。貴方の苦しむ姿は私も苦しい。伯母に何で先に逝ってしまったの?と何度も問いかけた夜だった。

涙を見せた日

それから伯母の葬式も済ませ、親戚一同でご飯を食べてた時。私の娘がやっと来れた。娘にとってはおじいちゃんおばあちゃんの関係。娘が来た瞬間「〇〇~(娘の名前)」と伯父が娘に抱き着く。その瞬間周りの親戚がシーン。伯父が泣き叫ぶのを見たのは、初めてだったであろう。しかもみんなの前で…私の内心は娘を孫のように思ってくれている伯父にありがたい気持ちもありつつ、娘は一切血のつながりはない。なのに娘に抱き着きながら伯父が叫ぶのだ…その瞬間、娘を孫のように思ってくれている感謝と実際の孫への対応の違いに少々戸惑う。

伯父の涙は伯母への愛だった。昔の夫婦なので、まったくイチャイチャとかなかったが、伯父の貫く姿勢を伯母はずっと支えていた。酒飲みだろうが、色んなことを引き受ける人だろうが、いつも伯母はお父さんを支えて、一番にしていた。夫婦愛と言えば簡単。そんな伯父をみて私は伯父の伯母への愛情の深さを胸に刻んだ

悔しくて涙が止まらない

そしてとうとうこの日が…2019年伯父が他界。朝仕事前にお兄ちゃんからの電話。もしかして!?と思いつつも電話を取る「親父亡くなった」
その瞬間、いろんなことがよぎる。泣きながら出勤。その日仕事も忙しく、気を紛らわせようにもお客様が途切れた瞬間、涙が流れる。実父の時は涙を流す間もなく、必死で立ってた。伯父の時はお兄ちゃんたちがいるので、安心して私は泣くばっかり。悔しかった。伯父には何にも返せてない。弱っても時折会いに行くと「幸子」といつも笑顔で答えてくれた伯父はもういない。

親戚のみんなが支えてくれるほど、悔しくて涙が止まらないのだ。血も繋がらない私を本当の娘のように、遠慮せず接してくれた伯父。この記事を書いている瞬間も涙が溢れる。伯父の背中はいつも大きく私はファザコンならずオジコンだ。何でよ~と何度言っても訴えても伯父は答えてくれない。伯父はずっと寝てる。ずっとずっと。。


伯父へ

あなたの背中や生き様は、本当に私の人生を変えた。あなたがいなければ今の私はない。家族を友人を大切にし、信念をつらい抜いたね。
亭主関白なので、周りは時に困惑した。しかしあなたの魅力は人がついてくる事だ。それはあなたの人間力でもある。優しく厳しく大きな人。それがあなたです。
実父以上の存在であり、実父を立てることは決して忘れなかった伯父。物事の順序を常に頭においていた。

そして実はね。お通夜の日、夜中寝れずに外の空気を吸いに出たら、、葬儀会館の前に伯母が迎えに来ていたよ。「お父さん迎えに来たよ」って。二人本当にいい夫婦だったね。向こうで会えてますか?

私の実父や兄弟や友達と飲めてる?飲み過ぎてない?
向こうで大好きなお酒を伯母に叱られてない?

もう好きなだけ飲んでね♡

伯父ちゃん、ありがとう。何度でもいうよ。ありがとう。
私もあなたのように「罪を恨んで人憎まず」であり続けます。

この記事は愛する伯父へ捧げます。


今回私の誕生も含め、4人の親のことを書きました。省略している部分も多々あるのですが、私が生を受けて”今”こうして生きているのも、自分に携わってくれた方々のおかげです。

「実父には生きる」「伯母には母という姿」「伯父には懐の深さ」を教えてもらえました。残念ながら、実母には教えてもらったものがないです。しかし最後に愛してくれてたのを知れたのは良かったと思います。

私は家庭が複雑でしたが、たくさんの愛に包まれて、そしてその愛に気づけたこと・人が経験できないことができたこと。それが自分にとって幸せなことです。初めてこういった記事を書くので、ちょっとお恥ずかしい気持ちです。もし家庭環境で悩んでいる方がいたら、この記事で少しでも元気になってもらえたらうれしいです。

長々と読んでいただいてありがとうございました。

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