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創作大賞2024恋愛小説部門応募作「青い海のような、紫陽花畑で」 10話



あの、青い紫陽花の、海。
魂はあの海の底にあるのだろう。
魂は、目覚める。
海の底で閉したように、横たわっていた、
けれどもそれは、護られていたのだ。
閉した感情に。
魂が目覚めることはもう、
筋書きの中にあったのだ。

寒さの残る3月。
リズは教会を出ると、雲の間から見える空の青さに、
何かが解れるような感覚があった。
リズは黒いドレスを着て、教会に通い、
祈っていた。
召された、夫と子供たちと両親のために。
もう3年もそうしていた。
ふと、リズは自分の黒いドレスが気になった。
もうすぐ、また、春はやってくる。
ブルーベルが咲く,春が来る。
「春には似合わないわ。」
リズは呟いた。
黒いドレスは、重く、悲しみの象徴。
リズの心には懺悔の言葉がもう、響ず、
贖罪を背負って演じる、三文役者のように感じた。

黒いドレスを脱いで、
好きな色のドレスを着て、笑って。
そしてどうするの?何をするの?

リズは自分に問いかけた。

今はまだ、何をしたいか、わからなかった。

雲が流れ、青い空が広がって行く。
リズはまるで子供の頃のように、
誰もいない森の中を、鼻歌混じりに、
踊るように歩いた。
黒くて重いドレスを少したくし上げて、
無邪気に走った。
上品さに欠ける、と亡き母に叱られたものだ。

あれはダメ、これはダメ。
そんなの、もういいのかも。

思春期のように、思いながらリズは、
何かが終わり、そして始まるような
気がしていた。




終戦の噂が流れていた。

義母のアビゲイル の病が回復し、
以前のように過ごせることにリズは安堵していた。
愛する息子、ブライアンの死後、
色を無くした世界の中に入り込んでしまった
アビゲイル 。献身的なリズの看護と、時間が
アビゲイル をまた、彩りある世界に戻した。

「エリザベス、ここへ来てちょうだい。」
窓辺から外を眺めていたアビゲイル は
言った。

「お義母さま、お茶のおかわりを。」
リズはカップにお茶を注いだ。
綺麗に纏めたブロンドの髪、長いまつ毛、
そして優しいブラウンの瞳。
アビゲイル は初めてリズと会った時を
思い出し、懐かしさを感じていた。

「エリザベス、
私は実家に帰ろうと思うの。
主人もそうしたい、と。
戦争でどこも廃れてしまったわ。
親類も減り‥‥。
ただ穏やかに過ごしたい。
そして、環境を変えることで過去を
手放したいのよ。」

リズはアビゲイル の瞳に、
ブライアンとテディとイリスがいて
それは、悲しみに染まった愛から
永遠の愛に変わろうとしている、と感じた。

アビゲイル はリズの手を
優しく摩りながら言った。

「エリザベス、尽くしてくれてありがとう。
ブライアンを愛してくれて、ありがとう。」

アビゲイル の言葉に、リズは涙を
堪えて、下を向いたままだった。

「あなたの中に、贖罪が見えた。
いつもそう、感じていたわ。
その贖罪が何であるか、私には知る
権利もないし、詮索もしないわ。」

リズは小さなため息をついた。

「ねえ、エリザベス。」

アビゲイル はリズの顔を両手で
優しく包んだ。
リズは涙でいっぱいの目でアビゲイル
を見ていた。

「贖罪なんて、ありはしないわ。
懺悔なんて必要ないのよ。
命も、生き残った人の心も、戦争は
すべてを奪う。戦争こそが罪だわ。
けれども、いつまでも運命に舵を取られて
同じところにいても、何も変わらない。
人生は限りあるのだから。」
アビゲイル の瞳は、窓の外の、そのずっと
遠くの景色を眺めているようだった。



両親とジェレマイアと暮らした家に
リズは戻ることにした。
戦禍で近づけなかったのだが、
失ったものが大き過ぎて、
愛した家族のいなくなった家に入ることが
出来ずにいた。

けれども、戻ると決めた。

リズは薄紫のドレスを着た。
そして鏡を見た。
もうずっと、着ていなかった、お気に入り
のドレス。
子供の頃、クリスマスに、背中に天使の
白い羽を付けたことがあった。
鏡に映るリズは、あれから20年以上も
経ち、ひとりの、大人の女性だったが、
悲しみとやるせなさを知り、生きて、
そして今、
背中に羽が生えたように、不思議なほど、
軽やかさを感じていた。


家に戻るまで、リズは少しずつ、
思いを風に流した。
テディを身籠った時の、喜び。
イリスが生まれた時の、幸せ。
ブライアンの誠実さ。
義父母の、おおらかさ。
すべてが愛おしく、すべてを愛していた。
都合の良い考えかもしれないが、
すべてを愛していた。
両親のことも、そしてジェレマイアのことも。


リズのこれまでの思いが、風に流れて行き、
そして海の上を滑って行った。

リズは両親とジェレマイアと暮らした家の、
玄関の前に立ち、穏やかな気持ちでドアを
開けた。
薄暗い部屋に、なぜか、あたたかな温もりが
残っていると感じた。
父が座っていた椅子、そして、その側の花台
には、ブルーベルが。
乾き切ったブルーベルはそれでも、あの
懐かしく吸い込まれそうな青色をほんの
少し、残していた。
今にも、母のメアリーが焼いた、
ジンジャーブレッドの香りがしてきそうで。
それから、本を読みながら眠ってしまい、
そのまま朝になり、くしゃくしゃした髪のままで
起きてきたジェレマイアが階段を降りてきそうで。

リズは家の中を見回した。
家族の日常が、そこここに見えるように
感じた。

それからリズは、ゆっくりと階段を登った。
リズはジェレマイアの部屋の前で深呼吸をした。
あの夜、紫陽花を生けた花瓶を持って、
ジェレマイアの部屋に入る前、息が止まりそう
なくらい、高ぶっていた。
送り続けた愛を、すべてあの夜に込めて。

ドアを開けると、机には積み重なったままの
医学書があり、論文を書くジェレマイアの
背中が見えるようだった。

そして、整えられたベッド。

あの、深い海を知った夜、
その深さの中で、どこまでも昇り、
惜しみなく、ゆっくりと広がる、
目眩がするほどの、あの感覚。
体は地を離れ、心は海を泳ぎ、
魂は海底で光となった。
光はふたつに別れても、
またひとつに戻る。
















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