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《好き》って本能を手放しちゃいけない


一昨日、一日中バイクのことを考えていたら、『乗りたい本能』より『乗るのを止める理性』の方が勝ってくる自分に気づいて、「バイクを手放せば、全て丸くおさまるんだよな…」って思ってしまった。


そう思った時に、スッと心が固さを帯びて温度を失っていくのを感じながら、「幼い頃にこの感覚を経験したことがある…」と思い出した気がした。


好きなものを手放す感覚。
大切なものから遠ざかる感覚。


バイクを手放していいのかな?
また、心に蓋をするのかな?


また?


また…って・・・
わたしは昔何かを手放したのかな?
何に蓋をしたのかな?


 *             *              *



昨日、車に乗って色々考えていたら
「あっ!」と思った。

昔、蓋をしていた感情に気づいた。


それは、《好き》って感情だった。



両親が好き。


そう思うと、運転しているのに
涙が止まらなくなってしまった。


わたしは《好き》と思うことを止めたんだ。
3歳の時に。弟が産まれた頃に。


『両親が好き』と思うことを止めた。


なぜ?


多分、母は弟を育てるのに精一杯で、わたしは1人で頑張らなければいけなくなったから。

甘えてはいけない。
そう思ったのだろう。


その頃から、《自立》と称した厳しいしつけが始まったんじゃないかな?


だから、『両親を好き』と思う気持ちと『甘えたい』という感情に蓋をしたのだろう。




おかげで今、わたしは両親に何の感情も持っていない。

両親が明日死んでしまっても泣けないと思う。今、すでにいないのと同じだから。

悲しくはない。
ずっといないのと同じだから。

思い出はない。
18歳以前の記憶もあまり無い。



それでいいんだろうか?



両親はまだ生きている。

高校の時に、父に「わたしのこと嫌いなんでしょ!!」って叫んだら、「お前がわしのことを嫌ってるんだろう。」って言われて、「あれ?嫌われてないのかな?」って思ったこと。

大学の時に、母に「わたしのこと嫌いなんでしょ!!」って叫んだら、「子どもの嫌いな親がどこにいるの…」と言いながら初めて涙をこぼす母を見て動揺したこと。

「言ってはいけない言葉を口にしてしまったのか?」と思いながら、やはり「嫌われてないのかな?」と思ったこと。




今、娘に同じ言葉を言われても、何とも思わないだろう自分。母のように泣けないと思うし、「嫌いなら別にそれでいい。わたしも別に好きじゃないから。」と冷めて思う自分がいる。多分、そう言いそうになる自分を、かろうじて理性が止めるんだと思う。


《両親が子どもに愛情を注ぐ》っていうことがわからない。愛情を注がれたことがないから。そう感じたことがないから。



「親ならみんな、自分の子どもを好き。」と思っている母。

「最近、離婚した娘さんと一緒に暮らしている友人を見て、いいなぁ。あなたとまた暮らして、一緒に色んな話をしたいなって思ったのよ。」と言った母に、何の感情も湧かなかったわたし。



      *             *             *




「好きは本能かもしれない。」と千紗さんのnoteを読んで思った。その好きを手放すことは、本能に蓋をすることと同じなんじゃないかな?

わたしは、小さな子どもの頃に、その本能に蓋をしたんじゃないのかな?

両親がまだ生きているってことは、「まだ間に合う。」と神様が言っているんじゃないのかな?



「両親に手紙を。手紙を書いた方がいいかもしれない。」そう思って既に10日が過ぎた。

ようやく書きたいことがわかってきた気がする。



これもnoteのおかげ。


noteって有り難い。

本当に。




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