どうせなら私は肯定するサイドでいたい
私は人を肯定するサイドでいたい。
もちろん私は偏愛の人だから好き嫌いはあるわけだけど、でもせめて否定はしたくない。というか人に人を否定する権利なんてそもそも無いのだ。その人がその人であるのに許可なんてとるものでは無いのだ。否定も肯定も無いのだ。その人はその人。それだけだ。
常日頃からこんな事を考えている私だけど、改めて文章にしたくなったのは、身近な人からの悪意のない批判にイライラしていた時、ふとある人物のことを思い出したからだ。
もう随分前の話になるが、ある旅人がネット上でバッシングを受けていたことがあった。高校を休学して世界一周をしている「やな君」という人物だ。
彼はクラウドファンディングで資金を集め、世界一周に旅だった。だが途中ネパール入国の際、現地人と一緒に現地人用のレーンを通ってしまうというミスのために図らずも不法入国状態になってしまい、止むを得ず強制帰国になるというハプニングがあった。(当時のツイッターの思い起こしなので、誤りがあったら申し訳ない。)
その時の彼のツイッターはひどいものだった。
応援のコメントも沢山あったけれど、犯罪者と同じだとか、もう旅は諦めろとか、そんな様々な批判コメントも飛んでいた。
私が高校生だった頃、そんなバッシングに負けずに旅を続けることができただろうか。いや、今でさえできる気がしない。
でもそんなノイズにも負けず、彼は今も旅を続けている。
私はそれを、素直にすごいと思う。
そして彼がそこで倒れてしまわなくて本当に良かった と思う。
批判や厳しい意見を受け止めて、それを乗り越えてこそ成長するのだ なんて言う大人がいるかもしれない。でも私はそんな上から目線の言葉は嫌いだし、そんなので人が成長するなんて思わない。そしてそもそも人はそんなに頑丈に作られていないと思うのだ。
世の中に批判をする人はいっぱいいる。
そして批判とはいかないまでも、厳しい意見を言う人が大勢いる。
親切心からか「アドバイス」という殻を被った一見正論らしい言葉を投げかける人もいる。
正直私はそれですら嫌いだ。そこに多少の愛情があったとしても。
というか、悪意のない「親切」が一番タチが悪い。クソくらえ と思う。
私の考えとしては、
応援の言葉以外に何か言いたくなったのなら、黙って立ち去ってほしい。その言葉は正しいのかも知れませんが、言われた側の心は前を向きません。栄養にはなりません。エネルギーを奪うだけです。
これは極端かもしれないけれど、
黙って応援しろ。それ以外の奴は何も言うな。
というのが私の意見です。
そして思うこと。
そうやって批判することで同時に自分の首も締めている事に気づいて欲しい。そして気づいた時には、いざ自分が動きたくなった時には、自分が張り巡らせた言葉の鎖で身動きが取れなくなっているでしょう。
新しいことを始めたり、一見非常識で無謀なことをするのには多くの場合批判がついてまわるでしょう。一般常識に照らせばひねくれているとされることも多いでしょう。
でも、どんなにひねくれていても貫いてほしい。
側から見たらひねくれていても、自分にとっての真っ直ぐである場合がある。もしそうなら、どんなに滑稽でも理解されなくても、あなたはあなただけのひねくれを貫いて。と思う。
そして私は基本的に、そんなひねくれ者が好きなんだと思う。
どんなに理解できなかろうと、どんなに非常識に見えようとも、
きっとその人には私の理解し得ない宇宙がある。
そんな人の灯が消えないよう、砦があり続けてほしい。
だから私は肯定するサイドでいたい。
そう思うのです。
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