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些細なことにも敏感になーあれ

美大という環境で生活するようになって3ヶ月が経ちました。
デザインにおいてもアートにおいても、何が評価されるものなのかを自分なりに感じ取りながら生活するのがすごく楽しいです。

美大だからといって、美的感覚的に良い悪いの基準が教えられるわけでもないし、評価されるものとはどんなものなのかを教えられることも一切ない。
そんな基準なんか存在しないからね。
でもやっぱり感覚的にこれは良い、これは良くないというのはある。
それを、いろんな感性を持ち合わせた学生が生み出すものから考えることもあるし、それに対してプロである先生方の講評を聞いて新しい評価の観点を知ることもある。
そういう小さな感覚を探るのが楽しい。

「ダサいかダサくないか」という基準

そういうことを考えている中で、「ダサいかダサくないか」というのが自分の中で大きな判断基準になっているなと思った。
これは割と昔からある感覚だと思う。確実に両親の影響を大きく受けて。
両親の仕事柄というか感性の影響を受けて、必然的に「ダサいかダサくないか」に
敏感なように育ったんです。
もちろん、さくらこもしくはうちの家族がダサいと思うものも、違う場所ではすごく評価されるデザインかもしれないと思ったりもする。
でも、美大で3ヶ月過ごした現時点で、さくらこの感性は間違っていないなと感じる。先生が「これは違うな、これはないほうがいいな」と評価するものは、さくらこも「これはダサい」と感じていることが多い。

「ダサい」とは

自分の中で「これはダサい」と感じたらそれは良くないものとして扱うし、「ダサくない」と感じたら良いものとして扱う。この感覚があながち間違っていないことはわかった。でもじゃあそのダサいダサくない評価の基準というか材料は何なんだろうって考えてみた。それでひとつ思ったのは、余白の量なのかなと。
例えば、講評で先生から作品の説明を求められた時に、制作者が作品の細部に込めた意図を事細かに説明すると、急に作品の質が下がったように感じられる時がある。「うわ、その説明せんかったら良いものに見えたのに」って。
多分学科的に、制作者の意図に対して、それを形にする技量が足りてない場合が多いから余計にそう思う。
あと、そもそも、すごく才能のある人って意図をそこまで説明しないというか、説明することを拒む人が多い印象もある。でもそれってそういうことよね。
ある程度作品に余白が必要なんやと思う。物理的にも心理的にも。
制作者の意図がストレートに伝わりすぎないで、見る人が考察する余地があるものの方が良いと感じるし、そういう受け取り手に渡ってからの作品の揺らぎみたいなところにこそ良さがあったりもするのかなと思ったり。
これは、からだアートパフォーマンスっていう身体表現の授業でも身をもって感じた。

「良くない」はわかるけど「良い」はわからない

でも、「ダサい」っていう評価って、対象の粗探しでしかないなとかも思ったりする。「良くない」はわかるけど「良い」はわかってないみたいな。
それってネガティブな評価しかできないってことだから、蹴落としてるみたいでなんとなく嫌だし、良いものを作るのに遠回りしている気がする。
「良くない」だけじゃなくて「良い」も感覚的にわかるようになれることを、美大での4年間に期待する。

こういう些細な感覚とかニュアンスを深掘りするの、嫌いじゃないというかむしろ結構好きだし、それをどんどんしていこうみたいな環境で、とても居心地がいいね。楽しく過ごしてます。





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