芸術の[価値]とは何か。なぜ1億円の絵が存在するのか。偶には証券マンの真似事を。


[1億円の絵]

この記事に興味を持った人が一度は思った事のある
「1億円の絵はどこに1億円の価値があるの?」
という、この疑問。
 
この記事がまず目指す大きな目標がこの疑問への回答だ。
恐らく答えは1つではない。
しかし、今の私はこう考えていて、
この文章が誰かの疑問へのささやかな助けになればいいとも思っている。
 
そして、そこから、今の拙い私が考える[価値]とは何かについて、
少し雑談をしたいと思う。

[高額な作品]と[無料の作品]

わたし達は色んな作品を見てきた。
見てきたし、見せられてきた。
この記事を載せているnoteを始めとする、
TwitterなどのSNSはまさにそういうサービスだ。
 
まず、ユーザーに「見せる」
それを、ユーザーが「気に入る」「選ぶ」
そうしたら、ユーザーが「見る」
それをまた、ユーザーがユーザーに「見せる」
・・・
 
この「見せる」から始まる鑑賞のプロセスを、
拡散的にループさせる、させ続ける。
これがSNSのある種の本質構造だろう。
 
もし、わたし達が作品Aを無料利用のSNSで見た時、
作品Aはわたし達にとって[無料の作品]になる。
 
しかし、作品Aは実はある巨匠の名画だった。
作品Aは大きな美術館に展示されていて、
美術館に入場するには2000円かかるらしい。
そして作品Aを展示する為に、
美術館は作品Aを1億円で落札したらしい。
つまり、作品Aは[1億円の作品]だった。
 
なぜ、わたし達は[作品A]をSNSで見る時に
1円も払わなくて許されているのだろうか。
 
なぜ、わたし達は[作品A]を美術館で見る為に、
2000円を払わなくてはいけないのだろうか。
 
なぜ、美術館は[作品A]を展示する為に、
1億円も払わなくてはいけなかったのだろうか。
 
作品Aの「価格」はどうやったら決められるのだろうか。

[高額の作品]のロジック:特定の購入者による[購入][落札]

なぜ[作品A]は[1億円の作品]と言えるのだろうか。
これは極めてシンプルだろう。
「1億円で買われたから。」
だ。
 
もし、わたし達が世に出てまだ評価されていない作品、
例えば学生の課題作品でも
「1万円出すから買わせて。」
と言えば、その作品は[1万円の作品]になる。
 
この時、学生が怒るかもしれない。
「ぼくが一生懸命作った作品が1万円ポッチの訳ない!」
いや、もし他にそれ以上の金額を提示した人がいないなら、
たしかにその作品は1万円だろう。
 
逆に学生は謙遜するかもしれない。
「いやいや、1000円でいいですよ。」
いや、もし1万円の価値が提示されたなら、
たしかにその作品は1万円だろう。
 
つまり、単純に、
「作品の値段は購入者によって決定される」
のではないか。
例えばある芸術家が、
作品に1000円の値付けをして路上で販売したとして、
誰も買わなければその作品は1000円ではない。
もし誰かが1000円で買えば、1000円になる。
もし200円のチップが付いたら、1200円になる。
こうして作品は[購入]される。
 
そしてこの延長線上にオークションがあるのではないか。
人気の作品を[落札]する為には購入者にならなければいけない。
購入者になるには誰よりもその作品の価値を認めなければいけない。
そうして、
学生の[課題作品]が[1万円の作品]になる。
ように、
[作品A]が[1億円の作品]になる。
 
これが、[高額の作品]が存在する理屈だと考える。

[無料の作品]のロジック:鑑賞者という[投資家]と、芸術という[株式市場]

翻って、[無料の作品]が存在しうるのはなぜか。
[無料の作品]は無料かもしれないが、
たしかに世間では、価値のあるものとして扱われているようではないか。
なぜなのか。
 
わたし達は今、広大な空間の真ん中に1人でポツンと立っている。
この空間は[株式市場]だ。
この[株式市場]では、芸術作品の値段が取引されている。
株価は時価総額を発行株数で割った数字であるから、
わたし達は[投資家]として、
株分ごとに作品を[購入]する事ができる。
[購入]するとその作品を部分所有している事になるから、
その権利として作品を鑑賞する事ができる。
この時、作品の値段は時価総額にあたる。
 
つまり、時価総額100万円で100株発行の作品の場合
最低購入額は1万円
鑑賞権を持つ[投資家]は最大で100人
と考えられる。
 
しかし、現代のわたし達の鑑賞手段を考えてみると、
インターネットという1つの巨大な[株式市場]が鎮座している。
この時、株価はどのように設定されるのが最適解だろうか。
そこで、結局、現状の環境がほぼほぼ確定した最適解が
「作品の時価総額を鑑賞者の数で割り続ける」
方式なのではないか、という事だ。
 
つまり、時価総額100万円の作品は、
2人に見られたら1株50万
10人で1株10万円
100人で1万円
10000人で100円
となっていく。
 
しかし、もしあなたがネットという美術館運営者だとして、
随時こんな割り算を各作品にし続けたいか。
私なら嫌だ。
そんな時、ネットのユーザー数の圧倒的多さを前に
こんな事が言えないか。
 
「どれだけ時価総額が高くても、想定される圧倒的ユーザー数で割れば
結局株価は限りなく0に収束していく。」
と。
 
インターネットが美術館ならネットユーザーは既に入館した鑑賞者だ。
そして現状のネットユーザー数は、悠に50億人を越えている。
今世界に存在する最も高価な芸術品、ダビンチの作品ですら500億円。
いったいこれほどの分母を以てして、なぜ一々割り算の必要があるのか。
 
[無料の作品]を見ている時、
わたし達は恐らく0円で作品を鑑賞している訳ではない。
わたし達は天文学的に少ない金額を支払いながら鑑賞している。
そうは考えられないか。
 
もし[無料の作品]に[価値]があったとして、
その価値がネットに無料で公開されたからと言って絶望しなくていいのは、
結局膨大な鑑賞者たちによる塵のような鑑賞料の堆積によって
時価総額分の[価値]が回収されうるからなのではないか。
 

[価値]の種類

作品には[価値]がある。
この前提は作品に限らず守らなくてはいけない。
その時、わたし達はどんなものを[価値]とするか。
 
まず、今までの記述からして[価格]は1つの形だろう。
また、芸術には必ず[感情]が作用する。これも[価値]に違いない。
また、[機会][時間]もあり得る。
音楽を聞く。長時間上映室に籠って映画を見る。
[価値]のある要素を鑑賞に費やした訳だ。
恐らく幾らでも種類がある。
[価値]には無数の種類がある。
 

[収益]とは

[価値]に無数の種類があるからこそ
「なぜ作品を公開しても利益が出ないのか」
という多くの人が抱く気持ちに説明ができる。
 
まず鑑賞者は1人1人が限りなく0に近い金額を払っている。
しかし、[無料の作品]となっている時、
鑑賞者はそれ以外の[価値]を金額以外の形で払っている。
 
例えば、
[いいね]というネット独特の反応。
[リポスト]という非金銭的チップ。
[感想]というフィードバック。
[好意]。
などなど、これらは列記とした[価値]形態ではないか。
 
わたし達が金銭として作品の[価値]を求めるなら、
予め[価値]の形態を金銭に指定する必要があるのではないか。
その結果集まった時価総額分の金銭的[価値]の総量が[売上]なのではないか。
 
なら、[収益]はどうすれば生れるのか。
 
先述した[売上]の定義を飲み込むなら、
少なくとも芸術家は作った作品を手放しで公開しているだけでは
作品にかかった費用の一部分しか回収できない。
そもそも芸術家は、建前にしても「金が全て」では成り立たない。
だからなおさら「金にならないこと」をしているように見える。
 
私は今、時価総額を増やす事以外の方法が思いつかない。
 
どうやるかは色々だとも思う。
こればかりは本当に色々方法があると思う。
ただ、どうにかして時価総額を上げていって、
時価総額分の一定割合を金銭的[価値]に当てたとしても
その金額が作品にかかった費用を越えた時、
その作品はビジネスの土台に乗るんだと思う。
 

[価値]の有効範囲としての[場]という単位

最後に、[価値]には有効範囲がある事だけここに置いて行きたい。
 
[価値]は、鑑賞者によるモノだろう。
鑑賞者は自己同一的存在である。
自己同一的であるという事は、彼らを彼らたらしめたモノがある。
そのモノは、鑑賞者のいる環境に起因している。
つまり、その場で出現した[価値]には環境性要因がある。
作品が同一でも[価値]の出現には個々の環境が関わっている。
[価値]にはその環境による有効範囲がある。
 
私は今、この有効範囲を[場]と表現した。
[価値]には[場]が関係している。
 
こんな風に考えなくても当たり前の事なのだ。
わたし達は思いつくより先にその事例を幾らでも知っている。
 
ただ、こうして言葉にするのは、
[場]が人という存在の自己同一性すら形成し、
人が[価値]の発露である以上、
[場]が[価値]の湧き処であるしかない、から。
 
ということの再確認をする為なのだろう。
ムード、感動、グルーヴ、テンション、祭、約束、
全て[場]の上に成り立ったものなのだ。
 
我々は感情に支配される度に「包まれる」と言う。
 
[場]の見極めが大切である事が、
今までの人生を復習するように確認されてしまった。
 
この大地はどこで終わるのか。
どれだけ手を伸ばせばこの空に触れられるのか。
わたしに突っ込まれる手は、どこまで深くわたしを抉るのか。
 
これが[価値]なんじゃないか。
そういう気がした。

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