アニメの多様性を考える - 批評・ジャーナリズムがほぼ存在しないアニメ業界

前回のブログ記事の最後に、ドラマ『カルテット』のパセリの話題を引用して、アニメ業界は他のエンタメ業界に比べてパセリに注目するような土壌がほぼないと書きました。パセリだとなくてもいいとなっちゃうかもしれないので、ラーメン業界に例えると、味のバリエーションが少なく、各店舗による違いがあまりないという寂しい状況にアニメ業界はなってきていると危惧します。散文になってしまいますが、アニメ業界と他業界の違いを中心にアニメの現状を考えていきたいと思います。

映画業界の場合、様々な映画祭があり、キネマ旬報や映画秘宝(廃刊してしまいましたが…)などの批評雑誌の存在もあって、興行だけでは計れない指標があり、一定程度の多様性や新人育成の機会が保たれていると思います。片渕さんへのインタビューへの反応として映画賞に対して否定的な意見もありましたが、賞が全てではないにしろ、海外含めたコンペなどで注目をされることの効果や意味は映画ファンならよく理解していることでしょう。

視聴率が重要視されるようなドラマでも、コンフィデンスアワードやギャラクシー賞などがあり、それが意欲的な作品が作られる土台のひとつとして機能していて、フジテレビヤングシナリオ大賞や創作ドラマ大賞など新人育成の場も一応確保されています。それは、小説・漫画業界も同様です。

一方、アニメはどうかというと、映画祭や評論家などによる賞にあたるものは、国内では新千歳空港アニメーション映画祭や文化庁メディア芸術祭ぐらいしかなく、雑誌分野については、過去に専門・評論系はいくつかあったもののいずれも廃刊。業界と持ちつ持たれつのアニメ雑誌しか存在しません

新人発掘・育成の場として、定期的にコンテストがあったりしますが、そこから芽が出て、継続的に活動できているケースは稀。Netflixなどが出てきて変わるかなと思ったのですが、今のところ大きく変化したという感触はありません。ただ、技術の進歩によりアニメ製作のハードルが下がってきてはいるので、音楽業界と同じようにネットからデビューするような人は増えるんじゃないかと思いますが、いずれにせよ、他業界に比べても厳しい現状にあるのは間違いありません。

なぜそうなったかというのは、歴史的背景やビジネスモデル・製作体制の特殊性など様々な見方があるでしょうが、そもそも論として、日本は文化を軽視しているということを山本寛監督が書いているので紹介します。

『パラサイト』に関連して、韓国映画は国だけでなく、平均年4回以上映画を劇場へ見に行く観客が支えているということを、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんが書いています。

日本の映画鑑賞本数の少なさや、文化に対する意識の低さは、背景に経済的なこともあると思いますが、大してそのジャンルが好きでない人の意見に大きく左右されるべきでないというのは大きく首肯します。

『星合の空』への続編希望の声を見ると、監督へのリプや署名のコメントに海外からの意見が目立ち、海外のネットメディアからも割と突っ込んだインタビューがなされていたりして、関心の高さが伺えます。日本のメディアもいくつか取り上げているのですが、放送前の監督インタビューぐらいで、なんで実質打ち切りみたいになってしまったのかを切り込むような追加取材はないといったように、クリエイターの待遇面を除いては、業界の問題を指摘するような言説は皆無です。

批評の分野でいうと、大きな俯瞰で横断的にアニメ史を語っているのは宇野常寛さんぐらい。宇野さんはサブカルチャーの終焉を宣言していますが、維正の方の宇野さんの評論なんかを合わせて考えると、各国の文化的背景もあるにせよ海外と日本のギャップを強く感じ、その中で日本のコンテンツだけ終焉を向かえるとしたら寂しすぎる話で、どうにか意識が変わることを強く願うばかり。

希望を語ると、配信を中心に海外展開を強化する動きがあり、現在放送中の『ID:INVADED』が中国のbilibili動画で総合ランキング1位になるなど、思わぬ作品がヒットする環境が開かれているわけで、日本でなく海外を中心に意識した流れが生まれ、進化・多様化が進むといいなと思います。

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