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内省 自由に関するメモ

1 日本から自由になりたい

2 日本語から自由になりたい

3 経済的に自由になりたい

4 自分自身から自由になりたい


1

・日本から自由になるには、日本を出ればいいだけ。とはいえ、俺の日本アクセント(なまり)の残る英語とか、日本的な文化・慣習の中で身に付いた価値観とか発想は、海外に出たとしてもずっと俺に付いて回るだろう。日本人(アジア人)としての外見で差別されることもあるだろうし、そういう意味ではどこに行ったとしても、完全に日本から自由にはなれないのかもしれないな。
(俺が日本という国の外で過ごした時間はこれまでの人生の中でたった23日間しかないんだけど、その3週間ちょいの期間の中で1度、白人女性の方から人種差別を受けました。)

「日本から自由になりたい」とは言ったものの、俺は日本の自然も、言葉も、着物や料理なんかの文化も好きだし、日本で生まれ育ったことを自分のアイデンティティの一部としても誇りに思ってる。
とはいえこの国にも悪いところや嫌なところはたくさんあって、今書きながら思い付いただけでも、広がり続ける経済格差、はびこる反知性主義(専門家でなく芸人に喋らせるテレビ、他国と違い博士課程の学生に給料が支払われない、専門家の意見やデータが軽視されナンセンスな政策ばかりが打ち出されるなど)や人々に蔓延する自己責任論(維新の会みたいに緊縮や福祉削減と組み合わさると弱者から順に切り捨てられる)、人権意識の欠如(憲法で保証される「最低限度の生活」すらできていないホームレス状態の方々が日本国内にどれだけいるだろう?、名古屋入管の虐待致死問題、現代の奴隷制度と言われる技能実習生制度など)、価値の源泉(医療従事者・介護士・保育士などのエッセンシャルワーカー)を冷遇し、「中抜き」派遣会社ばかりが儲かる現状、高齢男性中心で多様性や共感性に欠けた政治・社会的意思決定、一向に改善しないジェンダーギャップ「出る杭は叩く」文化社会全体の変化・進歩(意識変革・行動変容)の遅さ、そういう日本的な問題からもたらされる息苦しさや未来に期待ができない状況から自由になりたい、という意味で「日本から自由になりたい」と書いている。


2

・日本語から自由になるには、英語(英語に限らず、中国語でも韓国語でもなんでもいいけど)をネイティブレベルで使えるようになればいい。日英バイリンガルへの道は今現在も追求中。



3

・経済的な自由。というよりは、経済的な自立(financial independence)といった方が適切か。両親に養ってもらっている今の身分も、今年度末の大学卒業&就職のタイミングで終わるから、これは時間の問題。


4

・「自分自身から自由になる」これが一番難しい。

ウズベキスタンを一人旅したとき、Topchan Hostelというホステルのフロントに

travel far enough, you meet yourself

と書いてあった。

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縁もゆかりもない土地で、言葉にも文化にも馴染みのない環境で、ひとりぼっちになって、はじめて自分自身の輪郭がくっきりと浮かび上がる。

言い方を変えれば、日常の世界から逃げ切ることができたとしても、自分自身から逃げることはできない。

"You take a ride with me anywhere all the way down"
(お前は俺と最後まで どこまでも道連れだ)

the HIATUS "Roller Coaster Ride Memories"より

俺は俺自身から逃げることができない。そう分かったなら、向き合うだけ。

とはいえ、最初のステートメント「自分自身から自由になりたい」が実現された、「自分自身から自由になった」理想状態があるとすれば、それってどういうものなんだろうか。もうちょい掘り下げてみよう。

「日本から自由になりたい」のところで、俺は日本のすべてが嫌いなわけじゃないって事実を確認したように、俺は俺自身のすべてが嫌いってわけじゃない。

しんどいときにすべてを投げ出したくなる逃げ癖とか、そういう自分の悪いところを克服したい。

自分の知性の、経験の、主観の限界を超えたい。もっと柔軟で、寛容で、慈悲深い存在になりたい。

残念ながらたとえ天才であっても、あるいは天才だからこそ、なかなか自分の主観の限界を越えることができないようです。

岡野守也「仏教とアドラー心理学」より

やっぱりそれ(主観の限界)を超えるためには、想像力と共感力が必要だ。empathyとimaginationについては、前々からnoteにもちょくちょく書いてるから、俺にとっての重要なキーワードのひとつ。

俺が俺自身の限界から自由になるには、俺自身の内部と外部の両方で、多様性とか両義性とかを大事にすればいいんじゃないかなぁ。

家族や友人、大事な人たちを大切にして、尊敬する人たちに近づく努力をする。もっと英語でも日本語でもいろんな本を読む。

〇〇先生だったらなんて言うだろう?親友の□□ならこの状況でどうするだろう?

そうやって、ひとりでいてもひとりじゃないと思えるくらい、大事な人たちや尊敬する人たちの明確なイメージが、俺の頭の中に、心の中にあればいいのかな、と思った。

6月くらいから勉強し始めたMBTIの知識とその実践は、確実にここ(自分の限界を越える、多様性を尊重する)に活きてくる。いつかnoteにもまとめたいと思ってるけど、それはまた先の話になりそう。

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振り返り

高校までは小さな漁師町で生きてきたから、その窮屈な世界から自由になりたくて東京を目指した。信号もコンビニもない漁村での生活と、人ばかり多い都会での生活の両方を身をもって体感した今は、日本すらも窮屈に感じるから、いずれは日本の外で生活(旅行じゃなく)してみたいと思ってる。新年度から外資系企業に就職するのも、俺の根底にあるこの自由への渇望にリンクしてる。結果を出して社内異動制度を活用できれば、国外拠点で働くこともできるから。

ちなみに先述したMBTIにおける俺のpersonality typeはENFPなんだけど、ENFPの一番わかりやすい具体例、モンキー・D・ルフィ(尾田栄一郎さんの「ワンピース」の主人公)をイメージしてもらえれば、俺が抱える「自由への渇望」は理解してもらえると思う。

既存の価値観、権威、搾取、支配、そういう重苦しいもの、窮屈なもの、理不尽なものは全部ぶっ飛ばしたい。

好奇心旺盛で、先例や現実よりも可能性や未来を重視して、なにごとも自分ごととしてとらえるENFPという性格タイプは主人公キャラにありがちな性格タイプらしくて、他にもわかりやすい例を挙げれば、天空の城ラピュタのパズーなんかもENFP。

フーシャ村から海賊王を目指す旅に出るルフィも、父の遺したラピュタの可能性を追い求めて旅に出るパズーも、逆に言えば村や炭鉱に留まって「毎日同じことを真面目にやって堅実に暮らす」ことに絶望的に向いてない人種だと思う。俺も多分そう。

とはいえ、ルフィもパズーも俺も若いから、歳をとれば変わってくるはず。

私たちは、人生の前半を、自分が自然に使っている心の機能の発達に費やし、人生の後半を、簡単には意識されることがないほかの心の機能を見出し、それを用いることに費やす。

R.R. ペアマン & S.C. アルブリットン「MBTIへのいざない」より

日本にも飽きて、そのうち海外にも飽きて、いつか地球すらも窮屈になるときがくるんだろうか?という極端な自問は、今も頭の片隅にある。とはいえ最近、俺を突き動かす力は、「ここではないどこか」=「あたらしい世界や経験」への渇望だけじゃないこともわかってきた。

以前はあんなに窮屈だった地元が、この前の帰省ではすごく自由に感じた。資本主義という人為的なシステムにとらわれない、自然そのものの美しさ。魚を釣り、畑を耕し、自然と共に生きる、人間の本来に近い暮らし。都会で値札をつけられた商品やサービスが、若さや美しさといった「変わらないもの」を消費者に求めさせようと洗脳してくるそこら中の広告が、すべて「ニセモノ」に思えてくる。ジブリの名作アニメーション「かぐや姫」のワンシーンみたいに。
田舎で季節の変化を実感しながら、たくさんの命の生き死にと隣り合わせで生きていれば、「無常」は事実であり真理であると理解できる。都会に生きていると、死や老いが望まれないもの、汚れたものとして日常から遠ざけられている感じがするけど、老化も死も必然だ。終わりはくる。俺にもあなたにも。

自然とともに生きる方が、俺にとって大切なものを見失わずに済むと確信した。久々に実家に帰って、建物や人工光に遮られない満点の星空に驚いた。夏の夜の虫たちの大合唱に驚いた。こんなことに驚いてしまう自分に驚いた。星空も、虫の声も、かつては生活の一部だったのに。。。

・・・

「世界は歩いて狭くしよう」というのは俺の親友の名言だけど、自分の足で世界を広げたその後は、どこか大切な場所に戻ってくるんじゃないかな。

俺にとって大事なものとか、守るべきものとか、愛すべきものがいつかはっきりしたとき、つまり若者として、「主役」として生きる人生のステージが終わったときには、今とはまた違う生き方になるんだと思う。

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