それでも誰かひとりに刺さってくれたら
今からちょうど10年前。友人の紹介で生命保険業界に足を踏み入れたときのこと。
生命保険なんて考えたこともなかったし、興味もなかった。しかしお節介な私にはぴったり当てはまる仕事なのではないかとも思った。
一人ひとりのライフスタイルやニーズを聞き、その人に合った保険プランを提案する「ライフデザイナー」。この肩書きを得られることに、一瞬で心を奪われたのだった。
保険商品を販売するには資格が必要だ。入社してすぐに3ヶ月の座学を受けた。
生命保険の基礎知識からテレアポ、訪問、提案時などさまざまなシーンにおける顧客対応のマニュアルまで。簡単なビジネスマナーなんかも教わった。とにかく現場に出ても困らないように、一連の知識を身につけるべく、平日9時〜17時まで3ヶ月間、びっちり勉強したのだ。
ちなみにこの間も給料はしっかり出る。正社員の恩恵というものを初めて受けた経験でもあった。
無事に3ヶ月の研修を終え、試験にも合格。晴れて生命保険募集人としての活動を始めることとなった。
私が所属した支部は和気あいあいとしている。支部長はとにかく明るく、いざというときにも力になろうと自ら動いてくれるような行動力の溢れる人だった。
「女優になったつもりで。やってごらん!えりちゃんなら大丈夫!」
支部長がよくかけてくれた言葉だ。支部長に言わせてみれば生保レディは女優業。
職業柄イヤな思いをすることもあったが、支部長の言葉のおかげで「すべて演技だ」と思いながら乗り越えてきた。
言うなれば過酷な仕事。この一言に尽きるだろう。
まずはすでに契約のある顧客に対し、新しい商品に乗り換えませんか?という提案をするためのアプローチからスタート。しかし電話にはなかなか出てくれないものだ。テレアポの成功率は、体感で1%ほどであろうか。繋がったら奇跡、繋がってもガチャ切りされることなんてザラにある。
そうすると今度はアポなしで直接お宅へ伺う。タオルやら冊子やら、ありとあらゆるノベルティを持って。これらを準備するのもひと手間がかかる。購入は自腹だ。
契約者のリストと地図を見比べて、どんなルートで回れば効率が良いかを念入りに確認する。
家を探すときにより効率が良くなるため、契約者の名前も頭に叩き込む。
直接家に訪ねても、会える確率は低い。名刺や手紙やノベルティやらをポストに投函して痕跡を残す。実に地道な作業だ。
しかし私の支部では既契約者なんか目ではない。とにかく企業に営業しまくっていた。
まずは“企業開拓”。
日常的に営業に来ても良いかどうかを、直接企業に訪問して交渉するというスタイルだった。
中小企業、もっといえば工場系は入りやすく、営業許可も比較的スムーズにもらえた。
企業開拓は私の得意分野であったかもしれない。常識知らずの若造がてけてけとよそ様の敷地内に入ってきたかと思いきや「保険売りに来てもいいですか?」などと言い出す恐ろしさを、今客観的に考えてみるとゾッとするのだが。
営業許可をいただけた企業には、次の日からすぐさまアプローチをかける。
最初は情報収集から。生保レディは顧客の名前と生年月日がとにかく欲しいのだ。これがなければ適切な商品を提案することができないし、そもそも保険のプランを作れない。
そのへんにいる従業員に声をかける。飴を渡しながら「こんにちは、今日は寒いですね」そんな社交辞令からはじまり「アンケートにお答えねがえますか?」なんて言って、情報を聞き出す。
こうして情報を聞き出せた人から保険の提案をしていく。この繰り返しだ。
支部に帰ったら今日は何件企業開拓したか、何枚アンケートを書いてもらえたか、提案できそうな見込み客はどれだけいるかなどの報告をする。
デキの悪い日はあまり支部に帰りたくないものだ。
しかし数打ちゃ当たるとはよく言ったもの。こうした地道な流れを毎日繰り返し行なっていくことで、毎月1〜2件はコンスタントに何かしらの契約をいただけていた。
でも「自分の仕事はこれで良いのか?」というのが頭をよぎることもあった。
正直、契約してくれた人の中には、うちの保険商品じゃ過剰契約とも言わざるを得ないような提案をのみこんだ人もいる。
だって40なかばの独身男性に3000万の死亡保障ははっきり言って必要ないだろう。
しかも年齢が年齢だけに、保険料はものすごく高かった。
それがきっかけとなったのか、自分の中では定かではないのだが、次第にうまく提案できなくなってしまった。
そんなときに限って自分の作ったプランがことごとく断られてしまったり、企業開拓がうまくいかなかったり。そう、スランプが訪れたのだ。
ある朝突然、初めて全身にじんましんが発生するほど精神的ストレスは知らぬ間に蓄積していったのだった。
そんなある日、まだ未開拓だった土地に一件の工場を見つけた。小さな町工場だ。
まあダメ元で……。そんな軽い気持ちで声をかけてみた。すると一人の女性が対応してくれた。事務員だろうか。おとなしいけどどこか温かみのある、そんな第一印象だった。
営業にはいつでも来てください、とのこと。開拓成功だ。久しぶりに心の中でガッツポーズをした瞬間。ルンルンしながら支部に帰ったのを今でも覚えている。
2〜3日後に改めて訪問してみると、別の人が現れ「今日はお休みです」と言われた。
ん?どういう意味?と思いながらもあまり歓迎されていないムードを一瞬で察知した私は「また後日改めます」と言って工場を後にした。
後日訪問すると、今度は以前の女性が出てきて対応してくれた。あれ?ここの従業員さんたちには営業できないのかな?というのを、なんとなく察した。思ってたんとちがう。でもこの日、この女性がすんなりとアンケートを書いてくれて、また後日保険を提案しに行くことになった。
まだ20代なかばの独身女性だ。生命保険は必要ないから、うちの利益は少ないけど医療保険を最初から提案しよう。年金でもいいかな?
不思議とこの女性には近しい気持ちで「本当にこの人におすすめしたい保険」というのを親身になって考えることができた。この気持ちを忘れていた。私がやりたいと思っていた仕事はこれだったのだ。
そして渾身のプランを考えた私は再び工場を訪問し、女性に提案をした。商品の説明はいつも以上に力を入れたかもしれない。
すると彼女は「保険なんて今まで考えたこともなかったから、いろいろ知れてうれしいです」と私に感謝の言葉をくれた。
この仕事をしていて、こんな風に感謝の言葉をもらえたのはもしかしたら初めてなのではないだろうか。そう思ってしまうぐらいに、私にとっては印象的な言葉だった。
次までにどうするか考えてくると言ってその日は終わり、また後日、彼女は保険を契約することを決めてくれた。医療保険だ。一人の女性を思って作成したプラン。しっかりと彼女の心に刺さってくれたことがうれしくてたまらなかった。
同時期に第二子を授かっていた私。もちろん産休まで仕事を続ける予定だったのだが、この契約の直後にあろうことか切迫流産と診断されてしまったのだ。自宅安静を余儀なくされた。当然仕事には出られない。
女性のアフターフォローに行けなくなってしまったのが気になってしょうがなくて、私は手紙を書くことにした。先日のお礼と、事情により当分訪問できないであろうことを詫びるような文章にしたと思う。
すると女性から返事の手紙が届いたのだ。こんなことって今までもこれからも経験することはないんじゃないか。まさか返事が来るとは思わなかった。
もしかして、お怒りの手紙だったりして……。私はあなたを信用して保険を契約したのに!とか?いや、そんな風に言われても無理はない。だってタイミングが良すぎる。保険に契約した途端、それまで頻繁に訪れていた外交員が来なくなるなんて。
恐るおそる手紙を開けてみると、そこには予想を覆す内容が書かれていた。
手紙には私に出会えたこと、私に保険プランを作ってもらえたことにつくづく感謝を述べるような言葉が並べられていた。「絶対に自分からは保険を調べようとは思っていなかったけど、堀田さんがいろいろ教えてくれたおかげで真剣に考えられるようになった。本当にありがとう。」そんな内容だった。
お礼を言わなければいけないのはこちらの方なのに。私に対する感謝で溢れる手紙を読んでいるこの時間はなんて贅沢だったであろうか。この仕事をしていてこんなに感謝されることがあるなんて、思ってもみなかった。
私がしたこと、私の信念は間違いじゃなかったかな。そう思うとうれしくて、涙が止まらなかった。
妊娠中の私の体調は良くならず、臨月間近まで寝たきり生活を強いられた。まだ1歳の長男がいたから自宅安静にするものの、ちょっとでも状態が悪くなったら即入院だと、妊婦健診のたび産婦人科医に脅されていた。
結局女性に会うことができないまま産休に入り、元夫の転勤が決まり、育休中に県外への引っ越しが決まったためそのまま退職することになった。
彼女へのアフターフォローは信頼していた所長が責任を持って担当してくれると言ったので、お願いすることにした。
今でも時々思い出す。つらい思い出の中にある、やさしくて温かな話。
とっても些細なことだが、私の心の中でやさしい何かに包まれて、大事に大事に眠っている。時に私を目いっぱい励ましてくれるような、そんな昔の話だ。
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