「映像の世紀」論

 はい。NHKのあれのことです。
 最近やってる「映像の世紀バタフライエフェクト」の最新話「巨大工事」の回が存外によかったので、ちょっとそもそもこのシリーズの土台になる「映像の世紀」シリーズについて語ろうと思って。

 まず、歴史オタクのなかで広く語られている(らしい)初代が至高という風潮には、大筋で同意する。
 ただそれは後に作られた「新映像の世紀」また「映像の世紀バタフライエフェクト」がよくないから、というのではなくて、初代が起源にして頂点だったので、もう超えられないという立場にわたしは立つ。

 映像資料によって歴史を振り返るのがコンセプトの番組である以上、全く新しい映像素材がどこかから発掘されてこないことには、番組の構成は大きく変えられないと思う。
 そして教科書通りに通説をなぞるやり方で歴史を語った初代「映像の世紀」があることで、後続の「映像で歴史を語ろうねコンテンツ」は、教科書通りに通説を語るという一番オーソドックスな手筋を封じられた上で戦うことを強いらていると思っている。
 ゆえに、初代「映像の世紀」は起源にして頂点なのだ。

 もちろん歴史の教科書は年々書き換わり、通説というものはどんどん揺らいでいくのだけれど、1時間弱の映像コンテンツとして仕上げたとき、かつての映像の世紀と、今同じ手つきで通説をなぞる番組には、どの程度の違いを出せるのだろうか。オタク好みの「ここがこう変わったよ」がいくぶんか出来るかもしれないが、それで数字はとれるだろうか。

 それよりは、通説を語ることは過去の作品にぶん投げてしまって、歴史を新たな視座から見下ろし、別の切り口で紹介するような手つきや努力は用いられてしかるべきだし、実際、初代につづく2シリーズはそのように作られたと思っている。実際「あーそのイベントそこに派生するの!」的な発見のあるタイトルは多かった。(個人の感想です)。

 もちろん映像の世紀シリーズには多くの話数があるから、そのすべてが名作であるということは出来ない。ちょっと思想性強すぎるかな、ちょっとディレクションがニュートラルじゃないな、と感じる向きはある。
 しかしこれは、特定の視座から歴史を見下ろすにあたっては避けられないことだ。完全に中立的な立場から歴史を見るすべはしない。
 従って特定の立場に偏っていることをして「できが悪い」と表現することは、それこそできが悪い論評であるように思われる。そんなわけで私は「初代以外駄作」とする立場には同意できない。

 うっかりするとオタク論まで話がひろがりそうになるのを必死に押さえながらまとめにかかるのだけれど、とりあえず現代人の教養として「映像の世紀」は当然踏まえておくタイトルだと思うし、まだ見てない人は是非ご覧いただきたい。
 NHKオンデマンドで全部見られるので、何卒。

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